No1048

あんな場所に旅館を?
熊八翁偲ぶ座談会より流川通り整備で一流の宿に

0902o2  旧国道から山手の流川通りは、大正10年頃にできたと言われている。油屋熊八が亀の井旅館は開業した明治末は不便な場所だったが、その後は大通りに面した極めて便利のよい場所となったわけで、そのことを元警察署長の金田源太郎氏は「先見の明があった」と称賛している。
 別府赴任のたびに、流川通りが整備されて便利がよくなり、同時に一流ホテルへと発展していくさまをつぶさに見ていた。
 金田氏によると、亀の井の開業は明治44年だった。不便な場所にできた旅館の開業式に出席した思い出を次のように語っている。
 「私が別府署の署僚時代の明治四十四年に、油屋さんは旅館をはじめられました。本通りも何もない所でしたので、あんな所に……と思っていましたが、流石(さすが)に先見の明があったわけですネ。開業披露の案内をうけましたので、人力車に乗って本町から極楽庵(注・現在の三昧堂あたりにあった料亭)、不老泉のあの小さい道を行ったことを覚えております。」
 次に大正8年に警察署長として赴任した頃は、道路もできて一流ホテルの格になったと言っている。
 「大正八年、今度は署長でやってきたのですが前の道路も立派に改修出来て、一流ホテルの格となっておりました。油屋さんは大童(おおわらわ)になって、別府の宣伝と、ホテルのサービスに懸命となって溌剌たる意気を見せておりました。」
 大正13年の頃にはナンバーワンホテルに成長していた。
 「更に大正十三年に再び署長として参りました時には、堂々他の旅館群を尻目に、ナンバーワンホテルとして華やかな経営振りを見せておりました。」
  ◇  ◇  ◇  
 金田氏はほかに、熊八翁を顕彰する記念碑の計画が以前からあり、戦争が激しくなったために立ち消えになったことも証言している。
 「死後曾根さんや戸田さん、宇都宮喜六さんなどと記念碑を立てようとその場所迄選定したのでしたが、満州事変から戦争となり、遂機を得ずに今日に至っておりますが、何時の日にかは、きっと実現したいものと思っております。七十少しで亡くなられましたが、切(せ)めてもう十年でも、生きていてほしかったと思います。」(続く)


No1047

頭の切り替えに渡米
熊八翁偲ぶ座談会より佐藤敬画伯の父が旅館提供

0901o15  油屋熊八の人物像を知るための貴重な資料として、昭和25年の「油屋熊八翁をしのぶ座談会」からピックアップして紹介しているが、今回は洋画家佐藤敬(1906―78)の父、佐藤通氏の発言を取り上げる。株でスッテンテンになった熊八翁が渡米したことや、亀の井旅館のスタート時に家を提供したことを証言している。
  ◇  ◇  ◇  
 「株で何百万円も儲けたかと思うと、スッテンテンになる。又儲けては忽ちすってしもうという具合で、これではいけないというので、頭の入れかえにアメリカへ行ったというのが、渡米の真相なんです。」
 「サンフランシスコに着いたら、百五十円しか残っていない。早速教会に行ってその金をすっかり寄付し、牧師さんに就職を頼んだら、皿洗いに行けと言われ、何年間か殊勝にそれをやった。」
0901o2  帰国して再び株に手を出したりもするが、明治末に別府に来て旅館業を始めた。
 「日本に帰ってきて、間もなく私の所に見えて旅館をやりたいから家を貸してくれというのです。私のうちは二階二間下が二間、それに離れがあったのですがその二階建ての方を提供していよいよ旅館を始めることになったが、(中略)遂には離れの四間も貸してやるという風であった。和田豊治さんなどがやってきたのもその頃のことでした。そのうち私は子供たちの教育上大分に出ることになり、ここを全部油屋に譲って大分に出たのですが、そのような関係で、全く彼が死ぬまで一家同様の交りをつづけました。」(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※大分県が出した「大分県の産業先覚者」(1970年3月)で、兼子俊一大分大学教授が油屋熊八の項を執筆している。それによると、渡米は明治30年から33年まで。カナダからメキシコまで各地を回ったようだ。サンフランシスコ滞在中に三谷牧師から洗礼を受けている。
 この本によると、別府で旅館を始めたのは明治43年。また「佐藤通(敬画伯の厳父)邸隣りに、二階建て一棟の建て売り住宅を求め、亀の井旅館という小旅館を始めた。(中略)行き届いたサービスをしたので客がふえ、家はたちまち手狭になってきた。これを見た佐藤夫妻は、彼の善良な人柄とすぐれた手腕を見込み、自己の本宅を譲って彼を援助した。」と座談会での発言と若干事情が違うようだが、佐藤氏が大きな支援をしたことに変わりはない。

No1046

久住―阿蘇―雲仙結ぶ
熊八翁偲ぶ座談会より九州横断観光ルートを主唱 

0831o2  油屋熊八の人物像を知るための貴重な資料として、昭和25年の「油屋熊八翁をしのぶ座談会」からピックアップして紹介している。
  ◇  ◇  ◇  
 別府だけにとどまらず湯布院や飯田高原、さらに久住、阿蘇、雲仙まで結んだ九州横断観光ルートを提唱したのも熊八翁の大きな功績の一つ。久住町の元郵便局長、工藤元平氏はその大構想が芽生えたのは昭和初めのことではないかと、次のように証言している。
 「その後油屋さんが大変飯田高原に力コブを入れるようになったので、一日お目にかかって久住の方にもゼヒ来られるようお話しましたら早速やって来て飯田高原もいいが、成る程ここの展望も素晴らしい。特に阿蘇を望む波野一帯の雄観は、何とも言えぬと言って、大変お気に入ったようでした。昭和の初め六月頃だったと思います。ここで久住、阿蘇、雲仙を結ぶ大構想が芽生えたのではないかとも考へられます。」
 昭和2年の「日本新八景」選定で、温泉のジャンルで別府が選ばれた時にも熊八翁は活躍した。
0831o052  「昭和二年かに、日本新八景の投票が行われましたが、別府は関心うすで一向成績の上らぬのに業をにやして、締切間際に大活躍を演じ、遂に名をなさしめた功績は、油屋さん一人に負うといっても過言ではなかったでしょう。」
 高松宮殿下を案内した際の愉快なエピソードもある。
 「あれは昭和二年の八月だったと思いますが、連合艦隊の演習にお見えになった高松宮様のお供をして、久住高原に見えられた時の話しですが、種畜場から馬で行かれることになりましたが、殿下の手綱をとろうとしますと、そのお爺さん(油屋さんのこと)の腰つきがどうも変だから、お爺さん手綱をとってやるよう――仰言られて、油屋さんすっかり恐縮したことがありましたが、あとで油屋さんから聞いたのでありますが、ホテルに帰られてから、殿下は油屋さんに「お爺さんもう馬に乗るのはやめて、からだを大切にするよう」と申されたそうです。」(続く)

  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和32年11月9日大分県観光協会創立十周年記念で表彰された観光功労者の事績録では、油屋熊八について次のように記している。「明治四十四年、サービスをモットーとする旅館“亀の井”を創業以来二十五年間、内にあっては家業に精励、外にあっては別府宣伝のために夜も日も足らぬ奮斗を続けた。特に九州横断観光ルートの主唱、奥別府由布院、城島、久住高原の開発宣伝、航空思想の普及、ゴルフ場の建設に努力。昭和三年亀の井バス株式会社を設立し、当時全国に類例のない解説付遊覧バスを運行するなど翁の半生は大分県宣伝のためにあった。」

最近の写真

  • 0902o2
  • 0901o2
  • 0901o15
  • 0831o052
  • 0831o2
  • 0830o15
  • 0830o1k
  • 0828o25
  • 0828o2
  • 0827o25
  • 0827ok1
  • 0826o122