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No431 文学散歩

“泉都宣伝が使命”
記者団来別の仕掛人佐藤巌 大正12年にも文士団案内

0215o2  大正4年の東京記者団来別の仕掛け人だった、大分出身の新聞記者佐藤巌。自伝『新聞遍路』(昭和6年)には「泉都宣伝!それは私の標語であり、また私の使命である」と別府を愛する気持ちを力強く書き、その後も文士団を別府に案内したことを記している。
 大正12年3月は、久米正雄、里見弴、加能作次郎、田中純、松崎天民、岡栄一郎、山中忠雄。さらに昭和3年10月は、同じく久米正雄と艶子夫人、佐々木茂索とふさ子夫人、南部修太郎、松崎天民、小島政二郎、菅忠雄。「何れもこれ等文壇人の筆を通じて別府を天下に紹介して貰いたい為めであった。」とある。
  ◇  ◇  ◇  
0215o3  ところで、自伝によると、佐藤が新聞記者を志した理由が面白い。生まれたのが、大分県庁(現在の府内城)のすぐそばで、子供の頃から県議会を傍聴しペンを走らせる記者に憧れたのがきっかけという。
 「私の生家は現在大分県庁になってゐる白雉城(旧藩主大給公居城)の櫓の直ぐ下にあった。私の家の隣り続きの屋敷に県会議事堂があった。議事堂の大きい建物と広場とは付近の子供達にとって全く絶好の遊び場であった。県会の開かれてゐる時などは殆ど毎日のやうに裏門からこっそり這入りこみ、訳も判らないながら傍聴席の大人達に交って議事の模様を視聴きした。その頃の私を最も力強く惹きつけたおのは傍聴席の前方に陣取って熱心にペンを走らせてゐる新聞記者の姿だった。」
 「新聞記者は偉いものだ――私は子供心にも新聞記者の堂々たる態度に一種の崇拝的な憧憬と、したしみをさへ持つやうになった。(中略)私の生家が若し県会議事堂の隣でなく、商人街か農村であったとしたら、私は恐らく一生涯新聞記者と云ふ仕事に興味を持ちはしなかったであらう、と同時に決して新聞記者にもなっては居なかったであらう。」

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