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No488 流川物語

ビリケンの山手に日出屋
植木別府町長が経営した旅館

0813o3  大正初期と思われる流川通りの古い絵葉書を元に、現在のマルショク流川店あたりが当時、どんな様子だったかを探っている。
 これまでは、通りの北側に湯の花販売の河崎商会や江口歯科があったこと、通りの南側の4階建て洋館(とんがり屋根の展望台部分をのぞけば3階建て)の“ビリケン”は、そもそも中妻三郎という人物が建てた雑貨店だったことなどを明らかにしてきた(つまり、まだこの絵葉書が撮影された頃は、高木基輔経営の洋食店になる前なので、ビリケンとは呼べない)。では、その“ビリケン”よりも少し山手の(絵葉書では、右側手前)、2階に手すりがある旅館のような建物は何だったのだろうか。
  ◇  ◇  ◇  
0813o352  掲載したのはその絵葉書の部分を拡大したものと、もう1つは明治35年『新撰豊後温泉誌』に掲載されている広告の日出屋旅館の写真。建物に対して撮影方向が左右異なり、容易には比較しづらいが、じっくり観察していくと実は同じであることが見えてくる。
 たとえば、絵葉書で2階の手すりに手ぬぐいを干したところは、旅館の写真では人物が数人集まっている位置にあたる。絵葉書でその左側の手すり部分には、旅館の写真では2人の人物が姿をみせている。両方の写真ともに雨樋は合計3本で、雨樋と屋根のでっぱり具合を照らし合わせながら比較するとさらに共通性が見えてくる。
 ちなみに旅館の写真で右端の小屋は共同水道の施設と思われるが、絵葉書でも画面下端の暗がりにそれらしきものがかすかに見て取れる。
  ◇  ◇  ◇  
 日出屋旅館とは、浜脇町と合併する(明治39年)以前の別府町長を2期8年(明治28年―36年)つとめた植木岸太郎の経営。妻植木クリが女将として切り盛りしていたのだろう、旅館広告ではクリの名前がたびたび出てくる(明治35年『大分県案内』や同42年『別府温泉繁昌記』の広告など)。
 明治20年『豊後国別府村浜脇村諸用案内記』にすでに日出屋の名前が掲載されており、翌21年の『別府温泉記』では「旅籠屋並ニ貸座敷及ヒ酒類売捌」=旅籠屋(はたごや)並びに貸座敷(貸席と同じ)及び酒類売りさばき=とあり、「流川 日出や 植木岸太郎」と記されている。
 大正4年『通俗別府温泉案内』にも「日出や 植木クリ」と出てくるが、大正9年の旅館名簿ではすでに名前が消えており、流川通りの拡幅によって取り壊され廃業したものと想像される。
  ◇  ◇  ◇  
 ※別府市内の幼稚園教諭だった葛城久子さん(故人)の文章に「私の祖父は当時別府町長で、これまた流川の『丸一針』の前で旅館をしていた。祖父は伊藤博文公と親交があり」とあり、「祖母くり」とも書かれている。葛城さんは天涯孤独だったらしく、残念ながらご子孫から話をうかがうということもかなわない。
 ※植木岸太郎は町長以前に、明治22年から28年まで2期8年助役もしている。
 ※“ビリケン”の所在地は340番地の1で、山手に向かって数字が若くなっているが、植木岸太郎が所有していたのが338番地の1で、この数字が日出屋の所在地だったと思われる。

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