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No816 竹瓦界隈物語

火事の前兆でクモの巣
森屋旅館は昭和3年に焼失 再建後もまた火災に

1031o2  昔は火を取り扱うし、建物は木造であるし、旅館の火事は多かったようだ。珍しい5階建てだった森屋旅館も火災にあった。昭和3年11月のことだったようだ。
 郷土史料の『現聞日誌』では、旧暦の昭和3年10月13日(新暦11月24日土曜日)の日付で「前三時森屋旅館出火。外五軒累焼。二名負傷(五階建)」とある。つまり11月24日土曜日の午前3時に出火して、周囲にも延焼したらしい。
  ◇  ◇  ◇  
1031o2_2  森屋の子孫によれば、「森屋は2回火事にあった。2回とも前兆のように廊下の天井に妙なクモの巣が出来ていたらしい。祖父(仙太郎のこと)は火事のショックで死んだ。祖母(タミ)は番頭と一緒に頑張って旅館をもう一度建てたが、また火事で焼けた」という。つまり昭和3年ののちにも、再び火事にあった。前兆のように旅館の廊下にクモの巣が現れたという話は非常に印象的だ。ところで、タミは非常に働き者で、やさしい人柄だったという。昭和29年5月18日に他界した。
 一方、佐藤仙太郎は挾間の出身。子供は7、8人いたらしいが、長男と次男が戦病死し、三男の常雄(大正2年生まれ)が家を継いだ。子供の時はおぼっちゃんとして何不自由なく育ったが、何もかも失ってしまった。常雄は英語が得意で、おしゃれな人だったという。
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 昭和12年『別府案内』の商工人名録では「北浜/森屋/一二二/佐藤タミ」と女将の名前があるが、そののち人手に渡ったようで、昭和13年『電話番号簿』は「森屋旅館/山根繁夫/1350/北浜」、昭和10年代の旅館名簿では「森屋/一三五〇/ロ/山根繁夫」と所有者が変わっている。(続く)

No815 竹瓦界隈物語 

自慢の水族館があった
4階建て萬屋に対抗して増築か 森屋の5階で聖書学校も

1030o2  前回森屋が5階建てに増築したのが大正2年頃と紹介したが、そもそも3階建てを新築したのはその少し前だったようだ。
 明治42年『別府温泉繁昌記』掲載の広告には、「近年新築の三層楼」という言葉があり、明治42年より少し前に3階建てを新築したわけだが、そのわずか数年後に5階建てにしてしまうとは勢いのよさを感じさせる話だ。
1030o1  ところで、竹瓦温泉界隈からわずかにはずれるが、ユニークな4階建て旅館として知られる流川通りの萬屋旅館(現在の塩月堂の山手)の新築工事はほぼ同時期の大正元年(明治45年と同じ)の冬に起工し、翌2年に完成している(2007年5月の「懐かしの…」第234回で紹介した)。目と鼻の先に、別府一ののっぽ旅館ができることに、森屋の佐藤仙太郎が対抗したとも十分考えられる。
  ◇  ◇  ◇  
1030o2_2  さて、掲載した絵葉書のように、旅館内に水族館があったことが大きな自慢だった。画面を見ても薄暗くて、実際どんな水槽にどんな魚が泳いでいたのかまったくわからないが、廊下の両側に設けてある手すりや、ガラス張りの水槽らしきものが見える。
  ◇  ◇  ◇  
 なお、当時の宿泊客の雰囲気が少しでもわかる材料が、掲載した森屋から差し出された絵葉書の通信文。宛名面には大正5年8月7日の日付印がある。「夏は水こそ人の命よ。海水浴場の設備も完全に、避暑の客足しげく候。去る一日より五日まで夏季聖書学校当五階にて開かれ、夜となく昼となく勉強に汗たらすより外、何の障(さわり)も御座なく候。(後略)」(注・句読点を補った)
 森屋の5階を会場に5日間の夏季聖書学校が開かれ、昼夜を問わず熱心な勉強が行われたらしい。せっかく目の前の海辺は海水浴客で賑わっているというのに、筆者は外出さえしなかったものと思われる。(続く)
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 ※『別府温泉繁昌記』の広告全文は次の通り。「別府竹瓦温泉場/旅館森屋/佐藤仙太郎/本館は豊後第一有名なる竹瓦温泉と軒を相接し、一歩門を出れば直に浴場にして夜分の便利は勿論、降雨の日も傘を要する等の不便なく、家屋は近年新築の三層楼にして客室広闊、前は渺々たるかんたん(注・本来は漢字)湾に臨み後は巍々たる筑紫富士を仰ぎ、山水の勝空気の流通尤も宜しく、眺望佳絶、邸内に竹瓦温泉と同質の浴場あり。夏気は清涼、冬気は温暖、殊に汽船の乗降に便なり。弊館は日々各位の御愛顧を蒙り、来客大に増加し客室の陜隘を告ぐるに立至り仍て向側に高燥閑雅なる別荘を設置し其結構専ら衛生に注意し邸内に清潔なる温泉あり。且つ名声高き海浜の(すなゆ)に近く最も入浴に便なる事は其比を見ざるなり。貴客続々来泊せられ、名吟雅章又少からず。誠に保養文人雅客の為め好適の旅館なり」(注・句読点と濁点を補うなど読みやすくした)

No814 竹瓦界隈物語

屋根に“モリヤ”と大書
明治33年創業の森屋 ユニークな5階建て旅館

1028o2  松屋、関屋と並んで竹瓦温泉界隈の代表的な旅館だった森屋。創業は同じように古く、明治33年だったようだ。(大正9年現在『別府旅館能力調査表』によると、旅館主は佐藤仙太郎、電話122、木賃、5階建て、37室、108人収容、創業明治33年3月19日)
1029o25  この旅館がよく知られているのは別府や周辺を見回しても他にない、ユニークな5階建てだったため。大正13年『市制記念別府温泉画報』という本の宣伝文には「汽車でも船でも別府に着けば五層楼の屋根にモリヤの字を見るであらう。此処が入湯賄旅館の王である」と5階建ての屋根に書かれた旅館名が大いに目立つことに触れ、「入湯賄旅館の王様」と自慢している。もちろん眺望もよく、「眺めはよし、海岸に近く、遠くは国東半嶋、大分市、晴天なれば四国も見ゆる、実に心地宜き風光を眺めつゝ、温泉は竹瓦、霊潮泉、楠、寿等に近く真の入湯者の便である。」(※句読点は補った)と続けて書いてある。
 掲載した絵葉書の1枚のように、海岸側からは「モリヤ」の白い文字がはっきりと見え、旅館をPRする看板の役割をしていたわけで、旅館主の旺盛な宣伝意欲も伝わってくる。
  ◇  ◇  ◇  
1029o15  元々は3階建てで、4・5階を継ぎ足した。大正元年頃のことだったようだ。掲載した古い裁判所の綴り込み図面の資料では、5階建ての簡単な図を大正元年12月に佐藤仙太郎が提出しており、この頃に建て増ししたと思われる。
 さらに掲載した5階建ての絵葉書には、大正2年7月22日のスタンプがあり、すでにこの時に5階建てだったこともわかる。ちなみにスタンプには「豊後別府森屋水族館」という漢字と、同じ言葉がローマ字でも書かれており、ユニークな水族館も森屋の大きな自慢だった。(続く)
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 ※別府大学附属博物館(アーカイブズセンター)所蔵「大分区裁判所別府出張所図面綴込帳」に収められた登記のためと思われる図面では、「別府町大字別府字北町下/五百九十三番/一宅地五十四坪/五百九十四番/一宅地六十七坪/木造琺瑯瓦葺五階建本家一棟」と5階建ての建物であることがわかり、各階の坪数は「建坪八十二坪/外二階八十二坪/外三階六十八坪/外四階四十七坪五合/外五階四十七坪五合」となっている。提出は「大正元年十二月十日/速見郡別府町大字別府五百九十四番地/佐藤仙太郎」となっている。図では、中庭を囲んでコの字に建っていることもわかる。
 ※掲載した海岸から見た絵葉書では、森屋の手前に見える2階建ては砂湯の上がり湯と休憩のための施設(大正8年)、画面左が鶴萬旅館、右が児玉旅館。

No813 竹瓦界隈物語

林浪治・テツ夫妻が創業
林旅館から関屋旅館へ 隣の関屋買収し引き継ぐ

1028o1  現在北浜3丁目にある割烹旅館関屋の創業者は林浪治・テツ夫婦で、それぞれ山香、鶴崎の出身。元は林旅館(最初は松原にあり、のち関屋西隣にあった)だったが、関屋を買い取ってその名前を引き継いだ。
 昭和12年『別府案内』の商工人名録では「北浜/関屋/一一四/林テツ」、昭和10年代の旅館名簿でも「関屋/一一四/ハ/林テツ」と女将の名前が出てくる。ちなみに「ハ」は旅館の等級で、ハ号旅館の場合、宿泊料は四円(松)、三円(竹)、二円五十銭(梅)、二円(桜)だったようだ。
 2代目は林吉活(よしかつ)、3代目が戦後生まれの林晃一さん(62)。晃一さんによると、林旅館は関屋の西隣にあり、続きの関屋を買い取ったために玄関が2つもあった。風呂も2つと2つで合計4つあった。建物と建物は廊下でつながっていたが、段差があったという。
1028o25  かつては広島あたりから10日間くらい泊まる常連客や、四国の客も多かった。田川など炭鉱の景気がよいころはいつも宴会をしていて、開け放した窓から炭坑節や野球拳などに興じる様子が聞こえてきた。
 昔は湯も豊富で、モーターなしでも湧いていた。満ち潮になるとさらに湯量が増えていたという。部屋数は15、16室くらいだった。
 ところが、しだいに周囲の旅館を廃業してビルに建て変わっていった。関屋旅館も昭和52年に現在地(鶴萬別荘あと)に移り、旅館あとをビルにするとすぐに飲食店で埋まったという。(続く)

No812 竹瓦界隈物語

関屋別荘もあった
現在の岡嶋医院付近か 温泉周囲に多数の大小旅館

1026o2  竹瓦温泉界隈の代表旅館の1つだった関屋。温泉西側の3階建て旅館とは別に、掲載した絵葉書のように別荘もあった。
 掲載した明治44年の地図を見てみると、波止場神社のすぐ山手に「セキヤ別荘」という表示があり、現在の岡嶋医院の位置だったようだ。当時は森屋や鶴萬といった旅館も別荘を持っていたようだ。
 絵葉書のタイトルは「別府竹瓦温泉 関屋旅館別荘(電話十二番)」。平屋の落ち着いた建物のように見え、上客のための離れといった使われ方をしていたのではないだろうか。この絵葉書の画面左側には、木のたらいを頭に乗せて歩く女性が少しブレて写っているのも面白い。
1026o442  ちなみにこの地図(『豊後有名竹瓦温泉及二條温泉之図』)に名前が掲載されている旅館は多数あり、列挙すると、山田屋、千鳥館、若屋、山崎、鶴島屋、朝日館、いろは商会、セキヤ(関屋)、松屋、宮本屋、紀野屋、森屋旅館、伊予亀、瀬戸屋、セキヤ(関屋)別荘、森屋別荘、森屋客室、ツル萬(鶴萬)、ツル万別室(鶴萬別室)、吉村、武蔵屋、イヨカメ別室(伊予亀別室)となっている。(続く)
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 ※なお、掲載した地図で現在と大きく違うのは、竹瓦小路(昔は竹瓦マーケット)のアーケード街はまだないし、画面右端の新宮通りもまだ通っていない。竹瓦温泉は現在の施設の西半分の大きさだった。

No811 竹瓦界隈物語

明治期からの3階建て
関屋旅館館主の津久美美浪太郎 秋山辰作が経営引き継ぐ

1024o2  竹瓦温泉界隈の古くからの代表旅館の一つが関屋。竹瓦温泉の西隣にあった3階建ての大きな旅館で、前回まで話題にした松屋(松屋別館、現在のヒットパレードクラブ)と向かい合っていた。
 旅館主は津久美浪太郎という珍しい名字の人物で、宿屋組合の役員もつとめるなど有力者だった。大正元年に亡くなっている。
1024o15  掲載したのは明治39年『豊陽新聞』(1月28日付け)に掲載された関屋の広告。「入湯旅館/豊後別府町竹瓦温泉場/関屋事(こと)/津久美浪太郎」とあり、津久美の名前が出てくる。もう1つ掲載した『別府宿屋組合役員名簿』にも、「明治四十四年九月二十日当選/評議員/津久美浪太郎/別府関屋/大正元年十二月二十五日死去」と名前が登場する。当選後、わずか1年3カ月ほどで亡くなっていることがわかる。
 実はその墓石は野口墓地の比較的目に付く位置にあり、没年は同じで、行年54歳だった。
  ◇  ◇  ◇  
1024o2_2 1024o2_3  どういう間柄か分からないが、そのあとは秋山辰作という人物。宿屋組合の役員名簿に「大正二年十月三十日当選/同年同月同日満期/評議員秋山辰作」と、津久美のあとを引き継ぐように評議員に選ばれている。
 大正時代の旅館名簿にも秋山の名前が出てくるが、たとえば大正9年現在『別府旅館能力調査表』では、「関屋/(旅館主)秋山辰作/(電話)12/木賃/3階/(客室総数)24/(収容定員)65/(開業年)明治37年1月2日」となっている。松屋の明治33年には及ばないが、明治37年の開業で竹瓦温泉界隈でもかなり古くから営業していたことがわかる。電話番号「12」が非常に若い数字なのも、津久美がかなりの有力者だったことを示している(電話開通は明治42年)。
 開業時から3階建てだったかどうかはわからないが、明治42年『別府温泉誌』の広告、同年『別府温泉繁昌記』のグラビアページともに3階建ての旅館の写真を掲載している。
 なお秋山の墓石もすぐ近くにあり、それによると、大正15年6月16日没・行年47歳だった。(続く)

No810 竹瓦界隈物語

松屋別館あとにクラブ窓
昭和18年12月26日朝 海岸沿い松屋本館は全焼

1023o2  戦後のことになるが、竹瓦温泉そばの松屋別館のあとは昭和45年4月にマンモスクラブ窓が開店した。250人ものホステスを揃え連夜、満席の盛況だったという。ところが、昭和50年4月14日に竹瓦マーケットの一角から出火して類焼。もともと旅館の古い木造の建物を改装していただけに全焼してしまったが、翌51年に再開。さらに昭和63年からは現在のヒットパレードクラブとなった。
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 一方、海岸にあった松屋本館のことだが、4階建ての豪壮な建物は昭和18年12月26日朝に出火し、全焼した。
 新宮通りを隔てて北隣りの松嶋屋は類焼を免れたようだが、この松嶋屋が近火見舞い礼状(宛名面に昭和18年12月30日の日付印あり)を差し出している。
 「冠省 二十六日明方近火の際は早速御馳付消火に家財持出しに御尽力被下誠に難有厚く御礼申上候弊館は幸に類焼を免ぬがれ候段之れ一重に皆様の御蔭と奉深謝候/一々拝趨御挨拶可申上筈の処略儀失礼乍以寸楮御礼申上候/敬具/十二月二十八日/別府市海岸/松嶋屋旅館/佐藤京三」とあり、駆けつけた近所の人たちが消火活動や、家財道具運び出しの手伝いに大わらわで協力した様子が目に浮かぶ。
1023o2_2  なお、前回登場していただいた松屋別館・小坂正夫の子孫の話では、僧侶の団体が七輪ですき焼きをしたのが火事の原因だったらしく、最上階からじわじわと焼けたという。「大事な物を次々に別館に運んでいった。隣は児玉旅館だったが、延焼しなかった」と話している。
 掲載した戦後の海岸通りぞいの旅館街の絵葉書だが、画面中央が焼失した松屋本館のあとで、ぽっかりと空白になっており、ちょうどその前を電車が通行している。向かって左側の大旅館は児玉旅館、右側は松嶋屋。(続く)

No809 竹瓦界隈物語

働き者だった小坂正夫
松屋別館 低料金で修学旅行生ら宿泊

1022o1  竹瓦温泉そばの松屋別館については、昭和10年『大別府人物史』に記事が掲載されている。
 「客室総数三十五室、外に三十畳敷の大広間と内湯五ケ所、その外砂湯並に並湯を設備(中略)邸内の噴湯は外では見られぬ一大壮観である。又同旅館には入湯貸切室もあって庭内に理想的な炊事場を設け自炊の便も申分ない、宿泊客は主として入湯客が多く県下は勿論全九州遠くは京阪神、朝鮮満州方面からの投宿客で不断の繁昌を極めて、収容人員五十名、常に満員に近い盛況である」とその繁盛ぶりなどを伝えている。
  ◇  ◇  ◇  
1022o2  経営をまかされていたのが、創業者佐藤友吉の甥で同じ佐志生村出身の小坂正夫。子孫によると、「24歳の時から頑張ってきた。働き者で番頭と間違えられていた」というほどだった。
 旅館は料金が安く、修学旅行生や農家の人が主に利用していた。『大別府…』の数字とはことなるが客室数は41もあり、常にてんてこ舞い状態。風呂は家族湯が2つ、砂湯、従業員用があったという。
1022o2_2  当時は修学旅行生が宿泊した時は、朝早くから弁当作りをしていた。「朝5時から起きておにぎりを握った。生徒はおにぎり2つか3つと卵焼き、つくだになど。引率の先生は折り箱の弁当だった」。(続く)
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 ※『大別府…』には小坂が昭和7年に北浜青年団長に推されたことや、「妻女静子さんはまだ若いが内助の功が多い」なども記している。
 ※昭和12年現在の別府旅館協会の加盟旅館名簿では、3つの旅館の部屋数などは次の通り。「松屋本館/(室数)28/(畳数)490/(電話)22、810」、「松島屋/26/232/322」、「松屋別館/32/198/425」。

No808 竹瓦界隈物語

松屋別荘は松嶋屋に
佐藤友吉 3旅館の経営 それぞれ任す

1021o25  北海部郡佐志生村(現在は臼杵市)出身の佐藤友吉が明治33年に竹瓦温泉そばに建てた松屋旅館。そして明治末にいち早く海岸に進出して建てた3階建ての松屋別荘。この2つについて、大正9年現在『別府旅館能力調査表』ではそれぞれ「松屋/佐藤友吉/22(電話番号)/3階/33(客室数)/101(収容人員)/明治33年3月3日(創業年)」、「松屋別荘/佐藤友吉/322/3階/24/79/明治45年6月1日」とある。
 さらに4階建ての豪壮な松屋本館も加わり、松屋は3軒になったわけだが、昭和6年に別府商工会議所が発行した『温泉の別府案内』商工人名録にも、「北浜/松屋別館/小坂正夫/四二五」、「日ノ出/松屋別荘/佐藤京三/三二二」、「北浜/松屋本家/佐藤休五郎/三二六」と3旅館の名前が掲載されている。
1021o2  経営者名がそれぞれ違っているのは、子供がなかった佐藤友吉が3つの旅館をそれぞれ縁続きのものにまかせたらしい。
 竹瓦温泉そばの松屋は海岸の4階建て本館(本家)ができたことで、松屋別館となったが、友吉は妹の子である小坂正夫に経営を任せた。松屋別荘の佐藤京三については詳しいことはわからないが、やはり友吉が信頼して経営を任せたようだ。松屋本家(松屋本館)は前回紹介したように養子の2代目佐藤友吉が経営したが、佐藤休五郎は襲名する以前の名前。
  ◇  ◇  ◇  
1021o2_2  この中で、松屋別荘は松嶋屋に変わっている。現在の新宮通りを10号線まで下った北側に戦後もあったのが松嶋屋で、年配の人たちにはその名前がなじみ深いようだ。
 昭和12年に同じく商工会議所が発行した『別府案内』の商工人名録では、松屋別荘から松嶋屋に変わっており、「旅館、製薬/北浜海岸/松嶋屋/長・三二二/合資会社松嶋屋旅館」とある。
 掲載の広告には「天下一の海岸/天然砂湯前/松嶋屋旅館/特・長・電話三二二/眺望唯一にして親切本意/邸内に特効ある内湯並に砂湯二ケ所の設備あり宿泊料は御好みに応ず」。さらに作っていた薬の宣伝も添えられていて「トテモヨクキク尺間伝(シャクマデン)/申込次第試薬ヲ贈呈ス/胃腸良薬/一腸熱・体熱/一胃腸の痛み/一急性慢性カタル/一常習下痢/一悪性病/家庭常備薬/別府市北浜海岸/発売本舗松嶋屋薬品部/電話三二二番/振替下関一三六四四番」とある。(続く)

No807 竹瓦界隈物語

この上ない別府湾の眺め
松屋旅館の2代目佐藤友吉 海岸沿いに4階建て本館

1020o1  竹瓦温泉そばで開業した松屋旅館だが、明治末には海岸に松屋別荘を建て、のちにはその南側に4階建ての豪壮な松屋本館も築いた。海に面した抜群の景色の良さが売り物で、目の前に海岸砂湯もあった。
 当時の旅館案内(『松屋本館御案内』)には、「ヴェランダーの椅子に腰を降し、或は客室の窓に倚って鶴見山や由布岳を背景とした前面鏡の様に波静かな別府湾に臨みますと、空気が清澄で心身共に清雅なる自然の美と静けさとに溶けゆくでありませう。月明の夜等は又格別です」などと窓から見る別府湾の心癒されるような眺めをPR(注・句読点を補った)。
1020o2  さらに交通の便や、総檜造りの建築の豪華さ、温泉の豊富さや海岸の天然砂湯のことなど次々と紹介し、「交通至便の地にして前面一帯は洋々たる別府湾に臨み風景此上なし」、「最新式独逸ライト様式の一部分を日本風に加味した総桧造りの五層楼で純日本館であります。日本古代の優雅な美を遺憾なく則った建築」、「館内には温泉豊富にして砂湯・蒸湯・家族湯・男女大浴場等あり(中略)前の海浜には世界稀有の天然砂湯あり」などと旅館自慢の言葉を連ねている。なお、建物を五層楼=五階建て=としているのは、地下1階も含めてのことかもしれない。
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 昭和10年『大別府人物史』の「松屋別館」の項によると、この4階建て本館の建設は昭和2年のことだったらしい。「更に昭和二年本家(注・松屋本館のこと)を北浜海岸に二百六坪の地を相して建築すると共に竹瓦の方を松屋別館となし」と敷地が206坪あったことや、竹瓦温泉そばの松屋旅館が別館になったことも記している。
1020o25  同書には創業者佐藤友吉の養子で2代目を襲名した「佐藤友吉」の項もあり、「君の手で北浜海岸に堂々たる、四層楼の大厦を建築し今や泉都三百旅館中一流の大旅館として頭角を抜くに至った」と、2代目佐藤友吉が建てたことを明記。また、明治24年愛媛県東宇和郡高山村の篤農家に生まれ、縁故を頼って来別し、先代佐藤友吉氏に見込まれて養子となった、などと紹介している。(続く)

No806 竹瓦界隈物語

海岸進出は明治44年
酒造業の家に生まれた佐藤友吉 宿屋組合長・温泉改築委員も

1019o2   明治33年竹瓦温泉そばに開業し、いち早く海岸に別荘を建てた松屋旅館の佐藤友吉。そのより正確と思われる紹介が、大正6年『大分県人名辞書』にあることを記者は見落としていた。今回はそれをもとに話を進めることにする。
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 同書によると、佐藤友吉は文久2年(1862)の生まれ。生家はもともと醸造業をしていて、地元(北海部郡佐志生村)の資産家だった。別府に移り住んだのは明治32年とあり、翌年松屋旅館を開いたことになる。
1019o2_2  2階建てだった旅館を3階建てに改装したのが明治38年で、海岸に別荘を建てたのは同44年だった。ちなみに昭和10年『大別府人物史』では、これをそれぞれ大正6年、同2年のこととしていてかなりずれがあるが、やはり前者が正しいようだ。
1019o15  続いて同書では「浴客常に室に満ち、年一万余人の多きを算ふ(客室の多き点に於て同業に異数たり)。人物頗る堅実、嘗て町会議員に選せられ、宿屋組合長及び竹瓦温泉改築委員として功労あり、組合より木杯感謝状、町より感謝状紀念品を贈らる。」と客室の多さが功を奏して年間1万人以上を迎えていることや、堅実な人柄で、町会議員、宿屋組合の組合長、竹瓦温泉改築委員をつとめたことなどを紹介している。
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 ところで、材木業と宿屋業で数十万円の財産を拵えて海岸進出した、と事情を説明しているのが大正14年『大別府大観』。「材木商を開業し市の発展に随て宿屋業を初め苦心と努力奮闘による其功無しからず数十万円の財産を拵へ現今に於て北浜海岸別府湾に望める殊に山水の風光明媚の地に広大なる土地に宏壮なる別荘を新築し(後略)」などとあり、よほどの成功を収めたようだ。(続く)
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 ※同書では「三十八年三層楼に改装(当時三階建は日名子ありしのみ)」とある所が、『大別府人物史』では「同六年には竹瓦の本家を(中略)三階建の宏壮な家屋に改築した当時別府の旅館では三階建と云へば僅に日名子、佐伯屋だけで松屋を加へて三軒に過ぎなかった」としている。3階建てがわずか3軒とは明治期のことであるのを、大正6年としているなどかなり正確さに欠けている。

No805 竹瓦界隈物語

先駆けて北浜海岸進出
松屋旅館 砂浜の上に3階建て別荘

1017o2  明治33年とかなり早い時期に竹瓦温泉そば(現在のヒットパレードクラブの位置)に開業した松屋だが、海岸沿いに進出するのも早かった。
 のちには3、4階建ての木造旅館がひさしを連ねる堂々たる旅館街に発展していくが、最初は海岸道路(今の国道10号線)もなく、ほとんど浜辺から地続きのような場所柄だった。第一号だったかどうかはわからないが、先駆けての進出だったのは間違いなく、先見の明があったと思われる。当初は北浜海岸で唯一の3階建てだったのではないだろうか。
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 前回紹介したように、『大別府人物史』では海岸に松屋別荘が開業したのを大正2年のこととしている。
 掲載したのはこの松屋別荘の絵葉書と、大正2年『大分県商工人名録』の広告で、この広告には「特効ノ内湯アリ 豊後別府町竹瓦温泉前 松屋事 入湯旅館佐藤友吉 電話二二番/同海浜別荘 電話三二二番」と、竹瓦温泉前の松屋旅館のこととともに、海岸の別荘のことも記されているので、この大正2年には海岸進出をしていたことを裏付けている。前回、明治35年の広告からは内湯がないと思われたが、11年後の大正2年にはすでに内湯ができたようだ。
1017o25  一方、掲載した絵葉書は右側が3階建ての「松屋旅館別荘」、左側の平屋の離れはよく見ると看板に「貳号(二号)」と書き添えられている。ほとんど砂浜の上に石垣を築いて建てているような状態で、北浜公園や国道に変貌した現在の姿からは、とても同じ場所とは思えない。
 なお、左右2軒の間に溝が見えるのは、おそらく現在暗渠になっている川(現在の野上本館や鶴田歯科の南側の路地の位置)と思われる。とすると、左側の平屋は現在の新宮通りの真上ということになるのだろうか。(続く)

No804 竹瓦界隈物語

明治33年に松屋開業
佐志生出身の佐藤友吉 材木商兼業でもうける

1016o1  竹瓦温泉界隈の町名は現在の元町になる前は、北浜区。この界隈は昔から北浜と呼ばれていたようだ。
 明治40年『豊後温泉誌』の旅館一覧で、「北浜」に区分されているのは次の12軒で、初期の竹瓦温泉界隈の旅館がおおよそ分かる。
 早崎屋、戸次屋、松屋、関屋、宮本屋、臼杵屋、大黒屋、森屋、平野屋、福岡屋、鶴萬、ふかつ屋。
 このうち松屋、関屋、森屋には旅籠・木賃兼業の印があり、他は木賃専業。この3軒は比較的高級な宿だったと思われる。
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1016o352  このうち、松屋は北海部郡佐志生村(現在は臼杵市)出身の佐藤友吉が明治33年に開業した。昭和10年『大別府人物史』によると、最初は50坪の土地に2階建ての旅館を建てたが、のちに225坪に拡張し3階建ての大きな建物にした。その後、大正2年にいち早く北浜海岸に進出して別荘を開業し、さらに昭和2年には4階建ての松屋本家も築き、竹瓦のほうは別館とした。
 大変な発展ぶりだったわけだが、この4階建ては昭和18年に火事で失われることになる。
 もともとは材木商をしてもうけたようだが、別府―浜脇間の連絡船の船頭でもうけたという説もある。
  ◇  ◇  ◇  
 今回掲載したように、明治35年『新撰豊後温泉誌』に早くも広告を掲載しており、それには旅館業と材木商を兼業していたことが明記されている。竹瓦温泉がリウマチによく効くことを強調し、「その効能を試みられよ」とPR。この頃はまだ旅館に内湯はなかったようだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
1016o25  ※『新撰豊後温泉誌』の広告の文面は次の通り(読みやすいようにカタカナを平仮名に改め、句読点を補った)。「入湯御旅館並に材木商 豊後別府港竹瓦温泉場 松屋事佐藤友吉 本館は竹瓦温泉に接近す。この温泉は当地方頗る有名の霊泉にして、其効用は「リヨウマチス」、疝気、婦人子宮病、胃病、脚気病等に効験あり。就中「リヨウマチス」には最も適当し、如何に数年の重病と雖も必ず平癒せざるなく、実に無双の霊泉なり。四方浴客諸君、本泉に入浴して其効能を試みられよ」
 ※明治38年の泉源調査報告書「別府町浜脇町鉱泉に関する取調書類」によると、別府町には148件の泉源があるが、この界隈には竹瓦温泉以外に泉源がなかった。ただし、まもなく続々と掘削が行われ、各旅館とも内湯を持つようになっていったようだ。

No803 竹瓦界隈物語

春は1日三千人が入浴
昭和13年に純日本風に改築 豪壮な姿に“帝劇か”

1015o25  明治35年、大正2年と改築するごとにその地位を高めていった竹瓦温泉。昭和13年にはさらに敷地を広げて、純日本風の壮大な施設を建て、現在に至っている。
 翌14年の『勝地漫画別府温泉』は「モダン竹瓦 帝劇かと思ひ」と帝国劇場を引き合いに、新しい温泉のすばらしさを(かなり大げさに)表現している。
 その解説文は次の通り。「別府港の西北一丁余りにあり、木造二階建の市営大浴場にして階下を男女二湯に区切り各湯共に各一個の泉浴の外、数個の砂湯あり、階上には九十畳の大広間にして入浴者の休憩に便す、泉質は炭酸性塩類にして、無色透明なり、神経痛、レウマチスに偉効ありて、四六時中入浴者絶えず。」
  ◇  ◇  ◇  
 残念ながら昭和8年頃で改築前の数字だが、春の季節の1日入浴者数は3228人。当時の市営温泉中、浜脇温泉(6247人)に次ぐ健闘をしており、人気温泉だったことが分かる。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※『昭和九年別府市勢要覧』によると、市営各温泉の1日入浴者数は春と秋がそれぞれ次の通りだった(昭和8年の数字と思われる)。▽浜脇温泉=6247人、7498人▽霊潮泉=1958人、2384人、同蒸湯=817人、764人▽竹瓦温泉=3228人、1677人▽楠温泉=2595人、2362人▽不老泉=645人、1383人▽田ノ湯温泉=2327人、修理中▽海門寺温泉=1218人、(秋の数字はなし)
 ※昭和8年『別府市誌』の解説は次の通り。「別府港の西北一町の距離に在り。嘗つて疎雑なる竹瓦の浴場なりしを以て此の名あり。浴槽二十二個を男女当分に区画し、男女共、泉浴、砂湯各一、臥湯各九個を有し、入浴者頗る多く、昼夜喧噪熱閙の光景を呈せり。俗にロイマチスに効験著しと称せらる。階上に九十畳敷の浴客無料休憩所あり。」

No802 竹瓦界隈物語

大正2年改築で人気温泉に
明治35年からわずか11年で建て替え リウマチ特効や90畳広間も

1014o3  明治35年の改築で立派な瓦葺きの施設になり有名温泉に数えられるようになった竹瓦温泉だが、同じ海岸部にある霊潮泉のやや小型版といった扱いで、まだ地位が高いとは言えなかった。
 たとえば明治42年『別府温泉誌』では、「乾液泉(注・竹瓦温泉の別名)は霊潮泉の西北二百間許の処に在、浴場の構造、泉質の能否、概ね霊潮泉と異ることなし、但其規模に於て稍小なるのみ」と簡単な解説で終わっている。
 それが、わずか11年後の大正2年5月に、洋風の2階建てに建て替えられ、別府でも人気トップの温泉になった。リウマチに特効があるとの評判と、大きな施設、2階の広い休憩場が人気を呼んだようだ。
  ◇  ◇  ◇  
 大正4年『別府温泉』では、「現在の浴場は大正二年五月の新築に係り、八九十畳敷の階上では、自由に休息が出来る組織になって居る、此温泉は僂麻質斯(注・ロイマチス、リウマチのこと)に不思議な効能があり、医者に見放された重病人でも僅か三四週間の入浴で、忘れたやうに全癒し、にこにこ(注・本来は女偏の漢字)として立帰る実例は日毎に見受くる処である」とその効能のすばらしさを強調している。
 同年「通俗別府温泉案内」では「僂麻質斯に特効があるので評判されて居たが、時勢の進歩は粗末なことでは捨て置かれず、大正二年五月二階造の宏壮な家に改築した」とあり、入湯客の増加が改築の理由だったようだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載したのは改築されたばかりの頃の竹瓦温泉の絵葉書。赤い文字で解説が添えられており「(別府名所)有名なる竹瓦温泉 昔は竹瓦葺の温泉場なりしが其温泉の効能著しきを以て改築し今日に至っては別府大温泉の列に加はる最も浴客多く繁盛を極む。」とある。

No801 竹瓦界隈物語

以前は“寂寥の場所”
明治35年に瓦葺きとなった竹瓦温泉 改築を機に旅館街へ発展

1013o25_2  竹瓦マーケットの話題から、界隈の旅館の話に移るにあたり、まず竹瓦の温泉場の歴史を取り上げたい。
 現在はそのレトロなたたずまいで、すっかり人気スポットとなった竹瓦温泉だが、明治時代にさかのぼると、有名温泉には数えられていなかった。
 当時の案内書をひもとくと、別府(浜脇町と合併する前の旧別府町エリア)の代表的な温泉として挙げているのは、おおむね楠温泉、不老泉、田の湯、そして霊潮泉。明治35年の改築をきっかけにやっと竹瓦温泉(別名乾液泉)が登場する。
 明治35年『新撰豊後温泉誌』は楠湯、不老泉、霊潮泉、田の湯、乾液の湯(竹瓦温泉のこと)、紙屋の湯、永石の湯、朝見温泉を取り上げている。初めて竹瓦温泉の名前を出しており、「元竹瓦葺なりしが本年瓦葺に改築せり」と解説している。
  ◇  ◇  ◇  
 瓦の代わりに竹で屋根を葺いていた粗末な施設から、瓦で葺きの立派な平屋建てになったこの年が、旅館街へと発展するきっかけになったと思われる。
 たとえば、明治40年『豊後温泉誌』は、「此付近は数年前までは実に寂寥の場所だったが、今は四隣に宏壮美観の覊舎(やどや)が出来、浴者の来往繁く肩々相触るゝの賑かさで、昔の面影などは少もない」と記しており興味深い。数年前の温泉改築の頃までは実に寂しい場所だったのが、現在は周囲に立派な旅館ができ、入湯客の肩と肩がぶつかるほどの賑やかさで昔の面影が全くないというのだ。
 また大正9年現在『別府旅館能力調査表』で、明治30―40年代創業の旅館がいくつもあることからも、この頃が発展の時期だったことがわかる。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※内務省衛生局が明治19年に出した『日本鉱泉誌』では、別府鉱泉として楠湯、不老ノ湯、長石ノ湯、中津屋ノ湯、野田湯が挙げられており、年間入浴者を1万630人としている。ちなみに、長石ノ湯は現在の永石温泉よりも山手にあった温泉。野田湯は田の湯温泉のこと。
 ※浜脇町と合併する前の旧別府町エリアの代表温泉として取り上げられているのは、明治21年『別府温泉記』が楠湯、野田の湯、不老の湯、高札の湯。同年『豊後名勝温泉案内』も同じだが、楠湯、不老ノ湯、野田ノ湯、高札場ノ湯。明治27年『別府温泉紀事』が楠湯、不老の湯、野田の湯、高札場の湯、霊潮泉。明治29年『南豊温泉記』が楠湯、不老の湯、野田の湯、高札場の湯。明治31年『豊後温泉案内』が楠湯、不老の湯、野田の湯、高札場の湯、霊潮泉。いずれも、竹瓦温泉は登場しない。
 ※昭和8年『別府市誌』によると、竹瓦温泉の創業は明治12年となっている。
―――――――――――
[訂正]9月29日付けの790回でみのや絞店が「渡辺金一・とみや夫婦」とあるのは、「渡辺金一・とみよ夫婦」の誤りでした。お詫びして訂正します。

No800 竹瓦界隈物語

父は豊後電鉄の社長
愛媛県西宇和郡伊方村の出身 アーケード作った佐々木長治

1010o1  現在日本最古の木造アーケードとされるかつての竹瓦マーケット(竹瓦市場)は、愛媛県人の佐々木長治が大正10年12月に完成させたことはすでに紹介した。前年には大阪商船の汽船が接岸するさんばしがコンクリート製固定さんばしとなっており、拡幅整備された流川通りと、リウマチに特効があると人気だった竹瓦温泉を結ぶガラス屋根のアーケード街は、当然のように人気を博したと思われる。
  ◇  ◇  ◇  
1010o2  ところで、この佐々木長治という名前は別府の歴史には別大電車の豊後電気鉄道株式会社社長として登場するが、実は先代(1867―1914)。その息子の佐々木長治(1894―1970)は伊方郵便局長をはじめ西南銀行、予州銀行などの頭取を歴任、伊予合同銀行(現伊予銀行)への大同合併に貢献したという人物。衆院議員、貴族院議員、八幡浜市長もした。ともに出身は西宇和郡伊方村の湊浦。(『伊方町誌』より)
  ◇  ◇  ◇  
1010o2_2  さて、これまでマーケットの中にあった土産品店などを次々と取り上げてきたが、県内外さまざまな地域の出身者が集まっていたことがわかった。ここで商売を成功させて外へと発展していった店も多かった。また縦通りは今は住居のみで想像もつかないが、賑やかに鮮魚店や八百屋など食料品の店が営業していたこともわかった。今回で竹瓦マーケット(竹瓦市場)については締めくくり、次回からは竹瓦温泉周囲にあった旅館の紹介に移る。
  ◇  ◇  ◇  
 ※戦後の資料だが、1949年版『大分県商工銘鑑』では商店などの創業年を記していて参考になる。▽「みのりや金物店=注・みのやの誤りと思われる/別府市竹瓦町」は大正10年6月創業となっていて、マーケット完成前から商売をしていたことがわかる。▽「カネキヤ化粧品店/別府市流川通り一丁目/化粧品・小間物・衣料品/店主渡辺金七/電一二一七番/販県下」は創業10年10月となっていて、マーケット完成の少し前。▽「芹川みやげ店/別府市竹瓦町/土産品」も創業は大正13年2月となっている。
 ※大正9年『別府温泉入浴の栞』の土産品店の案内に「竹細工/阪東商店(港町)=注・坂東の誤りと思われる」とあり、坂東竹細工商本店がその頃すでに開業していたことがわかる。
 ※大正13年『最新別府案内』には「竹瓦市場」の解説があり、「私設、竹瓦温泉前に在ります。浴後散策旁(かたがた)土産品の買物などに便利。」とある。
 ※掲載した見取図は9月25日の787回で一度掲載したが、再度改訂版を掲載した。
 ※伊方町誌の資料は森吉徳さんに提供いただいた。

No799 竹瓦界隈物語

夜は木の門で戸締まり
竹瓦マーケット縦通り 花本食堂や古城野菜屋

1009o3  かつての竹瓦マーケット(竹瓦市場)縦通りの東端(北側)に住むのが花本正さん(70)。海からの風が吹き「風通しはよいが、台風の時が大変」と話す。
 両親=政義(まさよし)・美末(みすえ)夫婦=が花本食堂を開いていた。食堂は昭和15年から同61、62年頃までで、それ以前は小間物や果物など何でも扱う店を開いていたらしい。
 食堂は北側半分で、南側はつくだに屋だった。湯治の客が食事したり、漁師(大神や深江など)が酒を飲んだり、時には二階に泊まったりもした。宇和島からの船の待合所で手打ちうどんを売ったりもした。
 同家の出身は広島県の音戸ノ瀬戸あたりで、祖父の代に別府に出てきたらしい。
 ところで、この縦通りは夕方になると木戸を閉めて外部から入れないようにする。「私道でそれぞれの家の持ち物。だから、木戸を閉める。公道ではこんなことはできません」。また両側の家は屋根がつながっていて「勝手にいじれない」のだという。
  ◇  ◇  ◇  
 一方、花本食堂の反対側にあったのが古城という大きな野菜屋。昭和10年『大別府人物史』には実業家として古城董太が取り上げられていて、そのプロフィールが分かる。
 それによると、明治31年大分市元町の生まれで、大正5年別府に移住し青物市場の仲買人となった。大正13年には田の湯青年団を組織した。竹瓦市場に移ったのは大正14年で、野菜、乾物商を開業して懸命に働き、四国、下関、名古屋、宮崎方面と手広く商売をするようになった。
 大正10年に大阪商船会社の御用達となり、また青物市場仲買人組合長会計等に推され昭和7年までつとめるなど活躍したようだ。(続く)

No798 竹瓦界隈物語

最初の鮮魚店が3軒も
竹瓦マーケット縦通り 片山かまぼこ店もあった

1007o25  かつての竹瓦マーケット(竹瓦市場)の縦通りに住む山下敏治さん(72)=昭和12年生まれ=は一昔前、食品の店が並んでいた頃の賑わいを知る1人。今は商店がすべて消え、住宅だけの静かな空間となっている。
 通りの北側に家を構えているが、以前は反対側(南側)で父(笹市)が2軒分の広さの鮮魚店を開いていた。法被の背中に「山」に「サ」の字のマークがあったことを記憶しており、屋号はヤマサ鮮魚店だったろうという。店は昭和34年ごろまで営業していた。
 戦後まもない頃は通りの南側が野菜屋、牛乳屋、卵屋、魚屋、土産品店、北側に食堂、蒲鉾店、漬物屋、しもたや、質屋があった。竹瓦温泉前にも旅館の1階に池上散髪屋、石井時計店、高原魚屋、首藤(旅館)、果物屋(現在のタケヤの位置)があったと記憶している。当時は温泉前は広くて、町内(北浜7組)の盆踊りができたほどだったという。
 なお、山下家は曾祖父が長崎県の大瀬戸町出身で、祖父の代に別府に出てきたらしい。
 以前紹介したように、昭和2年生まれの森直正さんによると、鮮魚店は丸屋と山下のほかに箕作(みつくり)という店も並んでいた。昭和5年『別府市新年祝賀会出席者名簿』の北浜区からの出席者28人の中の「箕作久次郎」という人がそれと思われる。
  ◇  ◇  ◇  
 一方、通りの北側には片山というかまぼこ工場があった。熊本出身の片山正八(まさはち)と別府出身のツギ子(旧姓・首藤)夫婦が創業した。北浜の旅館もみな得意先だったという。
 普通のかまぼこだけでなく引き出物用を作っていたことを覚えている人や、戦後のことだが揚げたての天ぷらを買って食べるのが楽しみだったという人もいる。現在古市町にある「八商」につながっている。(続く)

No797 竹瓦界隈物語

縦通りは食料品店で賑わう
竹瓦マーケットの丸屋 富士見製氷や魚市場に発展

1007o15  T字型の竹瓦マーケット(竹瓦市場)は、観光客相手の土産品店が並ぶ横通りに対し、縦通りには鮮魚店や八百屋といった食料品の店が並んでいた。通りの南側にあった丸屋鮮魚店は富士見製氷や魚市場、ホテル経営へと大きく発展し成功を収めた。
 創業者は大神出身の工藤杉松。船買いといって漁船ごと魚を買い取るような大胆な商売もして成功し、富士見製氷を設立した。ずっとのちには別府中央魚市場、冷凍食品の問屋、ホテルやまとなどもした。あとで、それぞれの事業を男4人と女1人の子供たちに分け与えたという。
 四男の全典(ぜんすけ)さん(70)=富士見製氷会長、弓ヶ浜町=によると、富士見製氷は昭和11年の設立で、生まれた時はすでにできていた。「自分はこっちで生まれ育っているので、竹瓦市場のことは知らない」という。
 「氷は母(マキ)、鮮魚は父がやった。父は働き者で頑固な面もあったが、母が人当たりがよくてカバーしていた」。「船買い、網買いを度胸よくやっていた。貨物列車で氷を入れて大阪に運んだりもした。昔はタイやボラが網が上がらないくらいたくさん取れることもあった」と話している。
  ◇  ◇  ◇  
 母(ヨ子)がマキの妹、父(江藤茂)が丸屋鮮魚店の番頭だった江藤勝彦さん(71)=市議、北浜3丁目=は、工藤杉松について「一代で別府で五本の指に入る財をなした人物」という。子供の頃、時々訪れた丸屋あたりの様子を「人通りが多くて通れないほどで、とても賑やかだった」と振り返っている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和12年『別府案内』の商工人名録には「鮮魚/小売/竹瓦市場/丸屋鮮魚店/(電話番号)四五〇/工藤杉松」、昭和13年『電話番号簿』には「丸屋鮮魚店/工藤杉松/450/竹瓦市場/鮮魚並貨物自動車」と「冨士見製氷所/工藤杉松/290/富士見通三丁目」が掲載されている。

No796 竹瓦界隈物語

今やまちづくり拠点に
マーケットの温泉側入口 福本屋という旅館があった

1006o2  竹瓦マーケット(竹瓦市場)の温泉側入口(海側)に、昔は福本屋という旅館があった。
 大正12年『豊後温泉地旅館名簿』では旅館主が福本小太郎、創業が大正10年9月27日となっている(大正9年現在『別府旅館能力調査表』には福本屋は載っていない)。マーケットの完成が大正10年12月なので、同時期にスタートしたことになる。
 マーケット中央まで細長く2階部分が旅館で、1階にはいろいろな店舗があった。北側(温泉側)がセンナリというザボン漬けの店で、続いて同旅館が経営する竹細工の店があったらしい。
  ◇  ◇  ◇  
1006o2_2  現在はオープンカフェ「タケヤ」となっているが、経営者の水口民子さん(75)によると、47年前に購入した時は旅館の名残があった。カフェ内の東側(海側)に2階へ上がる大きな階段があった。2階はマーケット側に木の手すりがある廊下が続き、テーブルと椅子の3点セットが置かれていた。6畳や4畳半の部屋が元々8部屋あったらしい。内湯もあり、建物は大正時代のもの。現在1階部分はタケヤをはじめ4つの店舗になっているが、その2階部分が細長い旅館だったわけだ。
  ◇  ◇  ◇  
 ところで水口さんは日本最古とされるこの木造アーケードを保存修復しようと、活動の先頭に立つ名物ママ。チャリティーコンサートを開いたり、九州の駅弁ランキング2位にもなった「たみこの夢弁当」をせっせと作りながら修復費用を積み立てている。竹瓦温泉界隈に賑わいを取り戻すために一肌脱ごうと、シャッターが下りていた店舗をおしゃれなオープンカフェにして今年8月で10年を迎えた。まちづくり活動の拠点や、全国からさまざまな人々が立ち寄る交流拠点ともなっており、「まちづくりが生き甲斐」が口癖。
 店子の1人、岸川多恵子さん(62)が経営するサロン岸(タケヤ隣り)も「まちづくりのたまり場」的な存在で、来年1月で開店10年になる。岸川さん自身がまちづくりや町並み保存の勉強会にフットワーク軽く出かけ、講師として招かれることもしばしば。「みなさんが作ってくれているお店です」と話している。
(続く)

No795 竹瓦界隈物語

懸賞当選の自動車囲み
芹川商店の写真より 日露従軍した芹川善吉

1005o2  前々回取り上げた芹川商店の写真3枚(芹川一さん所蔵)を紹介する。
 1枚は創業者芹川善吉も建設委員の1人だった日露戦役従軍紀念碑(昭和13年4月、海門寺公園)の記念撮影。明治37、38年の日露戦争からすでに30年余りたち、当時の将兵たちも年老いたり他界したりする時期に、あらためてその栄誉を称えようと日露戦友会が建てた。年配の人の話では、善吉は日露戦争の話をしていたことがあったらしい。写真では2列目の左から4人目で、少し体を斜めにして写っている。
1005o2_2  もう1枚はマーケットのまん中あたりで商売をしていた森田さん(右端)のご主人が、大相撲の懸賞か何かで自動車を当てたことがあったらしく、その自動車を置き、芹川商店の前で写っている写真。右から2人目は関屋旅館(画面後ろの旅館)の女将、3人目がスヱ(善吉の妻)。昭和30年代のことだろうか。
 さらに1枚は、昭和47年前後、芹川商店がすでに土産品店をやめて駄菓子店をしていた頃で、元町薬局になる前の店頭の様子。スヱと長女フミヱが写っている。画面左上には「竹瓦歓楽街」の看板がちらっと写っていて、この頃にはマーケットは土産品店に代わり飲食店が軒を並べていた。(続く)
 ※日露戦役従軍紀念碑については竣功記念絵葉書を掲載して、昨年12月27日の第597回で紹介しました。

1005o15

No794 竹瓦界隈物語

家柄は徳川家の旗本直参
昭和10年『大別府人物史』より おしゃれだった田中駒次郎

1003o1  竹瓦マーケット(竹瓦市場)の初期からいて、昭和7年に秋葉通り1丁目に移転した田中毛糸店。主人の田中駒次郎について、昭和10年『大別府人物史』は成功を収めた実業家として紹介しており、何と父親は徳川家の旗本直参の家柄で、東京出身だった。
 それによると、明治22年に当時の東京市渋谷区の生まれ。志を立てて大連にわたり総督府に奉職するかたわら自分で学問を積み、10数年間官吏生活を続けたが、大正9年に退職し、別府に移住して竹瓦マーケットで土産品・毛糸商を営んだという。
 その後、より広い店舗を求めて昭和7年2月に秋葉通り1丁目の中浜筋2丁目との角地に移転した。毛糸手芸のほかに、節句の人形や盆提灯なども製造販売したようだ。また多彩な趣味を持っていて野球、魚釣り、撞球、囲碁、将棋を嗜んだという。
 「今日では別府第一の毛糸手芸品店として王座を占め」、「君は官界出身に似合はず商才に長け覇気に富み進取主義現代的実業家として知らる」と大いに称賛している。
  ◇  ◇  ◇  
 竹瓦マーケットでは流川通りから2軒目(山側)にあり、秋葉通り移転後は井上ざぼん店になった。年配の人たちの思い出では毛糸を買うと無料で編み方を教えてくれたということはすでに紹介したが、主人の駒次郎は、着物姿の人が多い中でおしゃれな洋服姿だったようだ。
 なお、昭和6年『温泉の別府案内』の商工人名録を見ると、竹瓦市場で「毛糸小売/田中駒次郎/一五七」となっており、同12年『別府案内』の商工人名録では「手芸材料、毛糸類、節句人形/製、小/秋葉通一丁目/一四二八/合資会社田中商店」と書かれていて、発展ぶりがうかがえる。(続く)

No793 竹瓦界隈物語

明治36年創業の旅館だった
芹川商店の前は宮本屋 竹田出身の嵩地吾作が経営

1002o2  竹瓦マーケット(竹瓦市場)入口の芹川商店の建物は、宮本屋という旅館だった。年配の人たちの話では、2階が旅館で1階は雑貨店をしていた。そのあと旅館を止めマーケットの向かい側の奥で土産品店をした。戦争中に店を閉じマーケットからいなくなったという。
 掲載した明治末の竹瓦温泉界隈の地図(明治44年『豊後有名竹瓦温泉及二條泉之図』)ではたしかに、同じ位置に宮本屋という2階建ての旅館が描かれている(大正10年築のマーケットはまだない)。真向かいは当時まだ平屋だった竹瓦温泉、西隣には松屋旅館(現在はヒットパレードクラブ)も描かれている。
1002o1  大正時代のいくつかの旅館名簿にも宮本屋の名前が登場する。同9年現在『別府旅館能力調査表』では創業は明治36年5月16日と非常に古く、旅館主は嵩地吾作、部屋数が6、総定員9人となっている。掲載した地図に出てくる乾液泉とは竹瓦温泉のことだが、明治35年に建てられており、その頃リウマチに特効があるため人気が高まり、周囲に次々と旅館が建てられていったのだろう。
1002o2_2  なお、昭和6年『温泉の別府案内』の商工人名録には文具や雑貨小売で「宮本屋/嵩地政夫」と書かれている。
  ◇  ◇  ◇  
 嵩地(たけち)とは珍しい名字だが、子孫によると竹田の士族の家柄で、竹田では呉服店もしていたという。カマスカを放流した功績で知られる嵩地白孝も先祖。政夫は吾作の長男。(続く)
 ※『三重町誌』には、「岡藩士嵩地白孝は庶民の食糧源を川魚に求め、岡藩庁からの拝借金と自己資金をもって、肥後国から数百尾の『カマスカ』を購入し、藩内の河川に放流した。」とある。

No792 竹瓦界隈物語

ガラスケースに羊羹・柚煉
元旅館の芹川商店 福岡県添田から別府へ

1001o2  竹瓦マーケット(竹瓦市場)の竹瓦温泉側入口(西側)にあったのが、芹川商店。羊羹やザボン漬け、柚煉りなどを作って売っていた。掲載した絵葉書は芹川商店が昭和10年元旦の賀状として差し出したもので、当時の売り場の様子がよくわかって興味深い。
 画面左側はマーケットの奥へと続いていて、手前の道は竹瓦温泉前の道路。店員が3人いるのが見え、土産を選ぶ女性客たちの相手をそれぞれにつとめている。
1001o1  中央のガラスケースに積まれたボール状のものは、柚煉りを入れる容器(柚の形の陶器)のようだ。正面の客が選んでいるのは羊羹のように思われる。画面右端の商品台に積まれているのは、ミカンらしい。
 元々旅館だった建物で、2階は周囲の廊下に手すりがあって、いかにも旅館風のたたずまいをしている。
  ◇  ◇  ◇  
 芹川一(はじめ)さん(64)=北浜2丁目=によると、福岡県添田から来た祖父母(芹川善吉・スヱ)が元旅館の建物で土産品店を開いた。それ以前は果物の振り売りなどをしていたらしい。芹川は国東の名字で、祖父は国東出身。
 ヨウカンを作って売っていたが、虎や竜の形にしたりしていた。ザボン漬けも作ったし、水羊羹や餅も作っていた。
1001o2_2  芹川さんの母、長女フミヱがあとをついだ。芹川さんが高校生の頃までは修学旅行生が多く、マーケットの端と端に見張りの教師が立って小学生が土産品を買い求める姿がよく見られていた。さんばしが移転して旅館が次々に廃業したため、土産品店をやめ5、6年駄菓子屋をした。その後長男の芹川さんが元町薬局を始めた(31歳の時)。
 絵葉書に見える商品ケースは(底に車がついているのが見える)、夜は店の中に動かして入れ、戸袋から戸を出して店じまいをしていた。角のショーケースは動かせないため、覆いをかぶせて鍵をかけたのだろうという。
 ユニークなのは画面中央に見えるのが生木で、「子供の頃は枝葉を伝っていた。落ちるぞと怒られた」と話している。
 なお、2階はいかにも旅館風で6畳間が2つとさらに6畳間が2つ、その奥の間は従業員の住まいにあてていたという。 (続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※賀状には昭和10年1月1日の日付印があり、「謹賀新年/正月元旦/別府市竹瓦マーケット/芹川商店」と書かれている。
 ※芹川商店がいつ開業したかはっきりしないが、絵葉書は開店記念と思われ、前年(昭和9年)頃かもしれない。すでに紹介したように、後藤商店三男の森直正さん(82)によると、以前は竹瓦温泉山手にあった関屋旅館1階で果物や菓子の店をしていたほか、マツタケの振り売りをしていたことも記憶しているという。

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