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No839 竹瓦界隈物語

警察勤務のあと清秀館開く
竹田出身の工藤翠 界隈に庄内屋旅館も

1130o15  これまで竹瓦温泉界隈の旅館の紹介を続けてきたが、掲載した昭和16年の地図を見ると、山手から庄内屋旅館、旅館清秀館の名前も記されている。
 このうち清秀館は地図上では東西が銀座街と裏銀座、南北が梅園通りと新宮通りに囲まれているように見えるが、正確な位置は不明。
 ただ、昭和11年9月19日『今日新聞』には「市区改正道路を/因縁や情実で曲げ過る」の見出しで「清秀館の建物(工藤翠氏所有)のみが道路に出て曲げられてゐる」と指摘した記事が出ており、旅館の一部は現在の銀座街(国際通りソルパセオ)の上にあったのだろう。
1130o15_2  大正14年『大別府大観』は「工藤翠氏(実業家)明治三年本県出身。岡藩に録を食む。明治三十年警察署に奉職し刑事部長となる。大正六年迄で二十年間官職にあり退職後高等貸間清秀館として営業を営む。清秀館は岡藩にならい屋号を付く。尚又区長に推薦され今日に至る。氏は書画骨董の趣味あり。(別府市北浜区)」(注・句点を補った)と記しており、竹田の出身で、警察官を大正6年まで勤めたあと清秀館を始めたようだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和10年代『別府市旅館案内』では「清秀館/一一二〇/ハ/工藤カツ」、「庄内屋/ニ/安部要」とある。
1130o15_3  ※戦後の1949年版『大分県商工銘鑑』では「庄内屋/別府市北浜/創大正九年/経営者安部要/電九五九番/(級)五(収容)五〇人/(浴)普通有/(交通)桟橋より三分駅より十三分」とあって、庄内屋(安部要)の創業は大正9年だっ

No838 竹瓦界隈物語

伊方出身の大浜屋
竹瓦温泉西側に昭和8年開業

1128o2  竹瓦温泉の西側、関屋旅館の北隣で通りから少し引っ込んだ位置にあったのが旅館大浜屋。昭和16年の地図裏面に掲載された広告には「入湯旅館大浜屋/竹瓦温泉隣」と記されている。
 昭和15年現在『温泉大鑑』によると、客室数7、収容人員17で小規模な宿だった。昭和10年代の『別府市旅館案内』では経営者が中川シズとなっている。
  ◇  ◇  ◇  
1128o15  市内古市の中川豊彦さん(84)によると、両親(中川貞雄・シズ)が経営していた。愛媛県伊方の大浜出身だったことから、旅館名を付けたのだろうという。松原公園からちょっと海岸寄りでカマボコを作っていたが、やめて旅館を買った。
 1949年版『大分県商工銘鑑』には「大浜屋/別府市竹瓦町/創昭和八年十月/経営者中川シズ/(級)五/(収容)一五人/(交)別府駅より徒歩七分」とあって、昭和8年10月に旅館を始めたことがわかる。中川さんは小学校3年の時に南小から北小に転校したそうだが、年代が符合する。
 「四国の人が、修学旅行の生徒とか大人とかが泊まっていた。竹瓦温泉があったから来たのでしょう」と話している。(続く)

No837 竹瓦界隈物語

ひっそり裏通りの静けさ
木下さんの写真に写る竹瓦アパートや伊丹孝 親子の情愛もほのぼのと

1127o15  今回は木下八重子さん(83)=市内山の手=に提供していただいた竹瓦アパート周辺の、戦後まもない昭和28、29年頃の写真を紹介する。
1127o15_2  前回も書いたように、竹瓦アパートは昭和11年頃に木下さんの父平野十郎が始め、位置は関屋旅館の裏手だった。竹瓦温泉西側の横通りと裏銀座の中間にある横通りで、今でも比較的人通りが少ない場所。竹瓦アパートはこの通りに面して西側にあった。
 掲載した1枚はその玄関の様子で、木下さんのお姉さんと子供が写っている。
1127o25  さらにもう1枚は玄関前の通りを北に向かって撮影した写真で、長男成通さん(昭和27年生まれ)を抱いた亡夫泰行さんが上半身裸で写っている。あどけない我が子を抱いた父親の喜びが伝わってきそうな写真だが、まわりに静かな裏通りの風情が漂っている。
 1127o2 画面左端は料亭「伊丹孝」の塀で、庭の緑が通りにせり出している。右側は旅館あさひの裏側だが、立派な石の門柱や鉄の柵があり、元々は立派な屋敷だったのではないだろうかと想像される。画面奥は梅園町へと通じる縦通りがあって3階建ての旅館らしい建物が見えている。
 当時は1本西側の裏銀座の通りは、小さな飲み屋などがひしめく盛り場だったし、反対側の1本東側の通りも竹瓦温泉の入湯客で賑わっていたと思われるが、繁華な町の真ん中にあることを感じさせない閑静な雰囲気のある一画だった。
  ◇  ◇  ◇  
1127o1  さらにもう1枚は竹瓦温泉前で成通さんを抱く八重子さんらの写真だが、当時は石積みで隔てられ温泉前の道路は今と比べるとかなり狭かった。ちなみに背後に写っているのは、右から鶴萬旅館の屋根、小松質屋とその背後の高い建物が児玉旅館。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※料亭の「伊丹孝」は戦前からあり、昭和12年『別府案内』の商工人名録の料理業の部に、「北浜/伊丹孝/一〇四三/酒井トク」とある。昭和13年『電話番号簿』にも「伊丹孝/酒井とく/1043/北浜(竹瓦裏通)/料理業」と掲載されている。

No836 竹瓦界隈物語

警察官や銀行員から転身
関屋裏手に竹瓦アパート 石城川出身の平野十郎

1126o162  前回松坂屋の項で登場していただいた木下八重子さん(83)=旧姓平野、市内山の手町=の実家は、同じ竹瓦温泉界隈の貸間兼旅館「竹瓦アパート」。関屋旅館裏手にある狭い通りに面して山手側にあった。
 木下さんによると、「敷地が広く200坪あった。電話は310番だったのを覚えている。1階にはあんまも入っていた。女中が3人もいる時があった」という。1階が間貸しで、2階には木下さんの記憶では12部屋あり、8畳の3部屋(あとは6畳)は入湯客用に当てていた。
 当時は軍艦が入港すると町中に兵隊があふれ、「何とか泊めてもらえないだろうか」と請われ女中部屋まで空けて泊めたことを覚えている。
  ◇  ◇  ◇  
1126o2  経営したのは父平野十郎で、石城川(現在は由布市挾間町)の出身。実家は江戸時代名字帯刀を許された家柄だったそうだ。
 豊後中村や豊後森で警察官をして、そのあと別府市の中町(流川通りと秋葉神社の間の旧国道)にあった銀行で支店長をつとめ、やめて竹瓦アパートを始めた。銀行は「福岡無尽」といっていたのではなかったかという。
 木下さんは小学校5年の終わり頃にそれまで住んでいた朝見から竹瓦へ引っ越し、学校も蓮田小学校から北小学校へ転校した。その頃、開業したのではないかという。
  ◇  ◇  ◇  
 掲載したのは、昭和11年7月7日の今日新聞に掲載された「竹瓦アパート」の「新開設」の広告。7、8月にたびたび掲載されており、この頃に開業したようだ。どんな旅館がわからないが、「元富部旅館跡」とも書かれている。電話はこの時「五百五十一番」だった。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和12年現在の別府旅館協会加盟旅館や同15年現在の『温泉大鑑』掲載旅館の表では電話番号が「551」。旅館規模は『温泉大鑑』では部屋数が14、収容人数が40人となっている。
 昭和13年『電話番号簿』には「竹瓦アパート/平野十郎/310/竹瓦」とあって番号が違う。昭和10年代の『別府市旅館案内』でも電話番号は310番(経営者名も同じ)。

No835 竹瓦界隈物語

松屋と坂ノ市から命名
大正9年2月創業 木下歳太郎経営の松坂屋

1125o2  戦後まで長く営業していたため、竹瓦温泉付近の年配者が今も記憶に留めているのが松坂屋。
 大正9年現在『別府旅館能力調査表』によると、大正9年2月13日の創業で、旅館主は木下歳太郎、3階建てで、5部屋・17人のこぢんまりとした宿だった。
 掲載したのはこれまでも紹介したことがある大正時代の絵葉書だが、「北浜通」というタイトルで竹瓦温泉東側の横通りを、流川通り側から北に向かって撮影している。
1125o2_2  画面右端ぎりぎりに白い旅館の看板があり、宿の名前は読みとれないが「木下歳太郎」という旅館主の名前がわかる。画面右端が松坂屋旅館で、その続きの2階建てが青物市場だった。さらに奥にある旅館の看板がちらっと見えるのが鶴萬旅館。
  ◇  ◇  ◇  
 木下八重子さん(83)=山の手町=によると、坂ノ市出身の歳太郎が松屋旅館(佐藤友吉)の勧めで旅館を始めたため、松屋の「松」と、坂ノ市の「坂」を合わせて旅館名とした。
 あとを継いだのは息子の藤吉で、名前は歳太郎が豊臣秀吉(木下藤吉郎)にちなんで付けたという。
 八重子さんの夫泰行さん(故人)は旅館は継がず、別府信用金庫(現在の大分みらい信用金庫)につとめた。
  ◇  ◇  ◇  
 松坂屋は戦後、裏側(海側)にあった旅館を買い取って海岸通り側に玄関を作った。掲載写真は昭和31年頃で、その玄関の前に木下さん夫婦と、泰行さんの弟純行さん(左)、番頭さん(手前)が写っている。左端に写っているのが伊予屋旅館。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※1949年版『大分県商工銘鑑』には「松坂屋旅館/別府市北浜/創大正十年三月/経営者木下藤吉/電一〇〇四番/(級)四(収容)十二人/(浴)普通二/(交通)桟橋より半丁」とあり、創業年が若干ずれている。

No834 竹瓦界隈物語

宇和島出身の瀬戸屋
温泉裏手に明治末開業 二条泉近くに移転後類焼

1124o1  現在波止場神社の北にある鶴田歯科の位置に、かつて瀬戸屋旅館があった。ところがさらにさかのぼって明治末には、竹瓦温泉裏に旅館があった。
 掲載した明治44年『豊後有名竹瓦温泉及二条泉之図』には、温泉の右側(北側)にかなり大きな2階建ての「瀬戸屋」が描かれている。中庭には内湯もあって立派な旅館だったようだ。
 その後、鶴田歯科の所に移ったのは大正8年で3階建てだった。さらにのちのことだが、昭和18年1月26日に二条泉(現在の野上本館北隣あたり)2階にあった説教所から出火した時に、瀬戸屋旅館は類焼し、再建は果たせなかった。
  ◇  ◇  ◇  
1124o442  瀬戸屋すみさん(83)=市内田の湯=によると、瀬戸屋家は愛媛県の宇和島出身。代々政次郎の名前を襲名しており、3代目政次郎の時に旅館を開いたようだ。その次の代が房治(昭和17年没、享年65歳)・コト夫婦。その子が亡夫通雄さん。
 火事の時は仏壇しか運び出せず、松嶋屋旅館に預けた。一切を失った同家に追い打ちをかけるように、大分経専(現在の大分大学)の学生だった通雄さんは学徒動員で中国に兵隊に行った。
 すみさんが通雄さんの姉(次女)で95歳になる関喜代子さん(千葉県在住)に問い合わせたところ、もともと同家はタバコの販売をしていたが、政府の専売制度ができて旅館を始めたそうだ。喜代子さんは竹瓦温泉裏に旅館があった時に生まれたのだそうだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※大正4年『通俗別府温泉案内』の旅館一覧に「瀬戸や(瀬戸屋房治)」が登場する。大正9年現在『別府旅館能力調査表』によると「瀬戸屋/瀬戸屋房治/(電話番号)461/3階/(客室数)14/(収容人数)40」で、創業を明治42年3月23日としている。
 ※鶴田歯科あたりはかつては北浜区ではなく日ノ出区で、昭和6年『温泉の旅館案内』には「日之出区/瀬戸屋/瀬戸屋房治/四六一」、さらに昭和13年『電話番号簿』では「瀬戸屋/瀬戸屋房治/461/鶴田町/旅宿」と旅館の位置を「鶴田町」としている。
 ※旅館組合(宿屋組合)の役員もたびたびつとめており、「大正7年12月7日補欠当選、評議員、瀬戸屋房治」ののち、代議員、評議員、相談役などでたびたび名簿に登場している。

No833 竹瓦界隈物語

貫通は昭和13年か!?
銀座街1丁目に住んだ押谷さん 引っ越した時は通りがあっ

1121o15  銀座街(現・国際通りソルパセオ)ははるか昔からあったようについ思ってしまうが、前回見たように昭和12年発行の地図では、まだ途中までしか通じていなかった。今回は旅館の話からちょっと脱線して、銀座街がいつ通じたのかという話題を取り上げてみたい。
  ◇  ◇  ◇  
 戦前岩屋護氏が発行した今日新聞の昭和11年9月13日付け紙面に、「行詰った新繁華街の誕生/貫通を鈍らせる家屋移転問題」という記事が掲載されている。
1121o15_2  「新繁華街」とは銀座街のことで、「梅園町より妙見山間の家屋移転問題が障害となってハタと行き詰ってゐる」とあり、立ち退き問題で工事が頓挫していた。妙見山とは現在くろちゅう会館がある場所。つまり梅園通り―北浜通りの間にある家の移転がうまく行かず貫通が遅れていたわけだ。
  ◇  ◇  ◇  
1121o132  前回掲載の地図(『別府温泉紹介地図』)は昭和12年8月1日に夕刊別府新聞社が第357号付録として発行したものだった。発行日にはまだ貫通していなかったと受け取ってよいだろう。
 今回掲載したのは、翌13年5月10日発行の『大別府温泉観光鳥瞰図』。画面左端の縦通りが流川通りで、右端の電車道路が駅前通り。画面中央の横道が銀座街で、すでに貫通した姿が描かれている。この両方の地図の発行日の間に、工事が完成しているわけだ。
  ◇  ◇  ◇  
 「昭和13年に銀座街ができたのではないか」というのは押谷清明さん(78)=亀川四の湯=。この年に父安太郎さんが「いかりや」という履物店を銀座街1丁目の流川通り入口から2軒目(海側)に開いた。「商売をするなら一等地で」という考えだったそうだ。
 それまでは行合町のほうにいたので、押谷さんは野口小に入学して4月の間だけ通い、5月1日から北小に転校した。銀座街に引っ越した時は流川通りから駅前通りまで貫通していたという。
 ところが、前々回の若屋旅館も同じだったが、終戦直前にこの銀座街の海側にある建物はすべて「強制疎開」で取り壊された。3年前に竹瓦郵便局の項(第125回、06年12月25日付け)ですでに紹介したが、押谷さんが住んでいた5軒長屋の借家も昭和20年7月25日に憲兵が取り壊しの赤紙を貼っていったという。(続く)

No832 竹瓦界隈物語

梅園と銀座の角に岡山旅館
銀座街全通前の昭和12年地

1120o120815  銀座街(現・国際通りソルパセオ)と梅園通り(西法寺と波止場神社を結ぶ縦通り)の角にあったのが岡山旅館。前回の若屋旅館から見ると銀座街をはさんで向かい側だった。
 大正14年『最新案内別府温泉』の旅館一覧には梅園町の旅館として掲載されている。昭和12年『別府案内』の商工人名録には「北浜/岡山旅館/1075/堀口清巷」、同13年『電話番号簿』には「岡山旅館/堀口清巷/1075/梅園町」とある。
 地元の人は「3階建てで大きかった。普通の人も修学旅行生も泊まっていた」と話している。
  ◇  ◇  ◇  
 昭和10年『大別府人物史』には、「泉都旅館業界の逸材」という見出しで経営者の堀口清巷が紹介されている。
 それによると、明治26年に愛媛県西宇和郡川上村大字川名津に生まれ、大阪などで缶詰工場を経営して財産を築き、大正13年に別府に移住。旅館業の将来性に着目して岡山旅館を開業したという。「泉都二百六十余軒の旅館中サービス本位の模範旅館」として群を抜いていると大いに称えている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
1120o12082  ※ところで銀座街が流川通りから駅前通りまで全通したのは昭和13年だったようだ。今回掲載した同12年の地図では、画面中央の銀座街は流川通りから梅園通りまでしかなく、画面右端の新宮通りあたりまではふさがっているのがわかる。

No831 竹瓦界隈物語

裏銀座にあった若屋旅館
終戦直後に強制疎開で取り壊し 戦後は土産品の光風苑に

1119o442  銀座街(現・国際通りソルパセオ)裏の狭い道は、古くからある通りで昔は海門寺道と呼ばれたようだ。掲載したのは明治44年の地図(『豊後有名竹瓦温泉及二條泉之図』)に描かれた若屋旅館で、この道に沿った2階建ての旅館だった。まだ銀店街が全く存在しない時代のことだ。
 大正9年現在『別府旅館能力調査表』によると、旅館主は日名子キヨ、客室8、収容人員20、開業は大正2年2月7日となっている。
1119o25  昭和10年代の『別府市旅館案内』では電話番号が936番、旅館主は日名子時蔵に変わっている。
  ◇  ◇  ◇  
 もう1枚掲載した絵葉書は戦前の3階建ての若屋旅館。宿泊客への礼状で、裏面にはあいさつの言葉のあとに「別府温泉竹瓦温泉/白梅荘/若屋旅館/電話九三六番」と印刷されている。白梅荘と呼んだのは、おそらく画面に見える玄関前の白梅(枝を切ってしまっていてそれらしく見えないが)にちなんだものだろう。
  ◇  ◇  ◇  
1119o1  日名子洋二さん(78)=元別府商工会議所副会頭、有限会社光風苑・有限会社別府リトルマーメイド社長=によると、日名子キヨは先々代で、先代が日名子時蔵・楓夫婦。
 時蔵は日本画が得意で、福田平八郎と京都の専門学校で同級生だったという。旅館が家事で類焼したため京都から呼び戻され、親と協力して旅館を再建した。ところが、終戦直前の強制疎開で取り壊されてしまった。
 戦後は銀座街側に土産品の光風苑を開き、銀座裏を自宅にした。時蔵は商店街の人たちと相談して別府銀座街と名前をつけたりしたという。
 この強制疎開について、当時を知る年配者は「若屋はまだ新しかったのに、もったいなかった」と話している。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※明治の地図にすでに掲載されているのに、大正2年開業とは矛盾だが、理由は不明。
 ※界隈の旅館を記した明治41年の地図には掲載されておらず、同43年と44年の地図には登場する。その頃開業したばかりだったのだろうか。

No830 竹瓦界隈物語

最も海寄りだった大盛館
眺望絶佳・空気新鮮とPR

1118o4315  繰り返し取り上げている明治43年の地図『豊後別府二条泉及乾液泉之図』では、掲載に同意した旅館ということで20軒の名前が挙がっている。このうち、地図の中でも最も海寄り(波止場神社の海側のほう)で、浜辺と地続きだったような場所にあった小さな2階建てが「大盛館」。
 同年の『新選南豊温泉記』に広告が載せてあり、「豊後別府竹瓦温泉の海岸/入湯旅館/大盛館/古庄千代松/本館は閑静にして、空気新鮮、且つ海浜なるを以て、眺望絶佳。邸内に竹瓦温泉と、同様の特効温泉あり。」と当然のことながら、眺めの良さや空気の新鮮なこと、さらに竹瓦温泉同様の特効がある内湯の存在をPRしている。
1118o432  大正4年『通俗別府温泉案内』や同6年『泉都別府温泉案内』には旅館名が記されているが、その後は大正9年現在『別府旅館能力調査表』などにも出てこない。大正時代には海岸通りの整備が進められていくため、立ち退きにあったりしたのかもしれない。(続く)
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温泉西側の寄席
別府館について
 11月16日付け第828回で、竹瓦温泉西側にあった寄席「別府館」のことを紹介した。大正4年を最後に別府館の名前は案内書に登場しない(同6年『泉都別府温泉案内』には別府館のことと思われる三友倶楽部が出てくるが)と書いたが、当時の地図には少し後まで掲載されていることに気づいたので、追加紹介する。
 和田成美堂発行の地図『別府温泉場市街及付近温泉場ト名所旧跡案内図』の大正7年8月と同9年7月発行のものに「別府館」が、また大阪市の和楽路屋発行の「別府町全図」(大正9年8月)には「三友倶楽部」が掲載されている。その後の地図には見あたらない。
 そうはいうものの、地図の場合、必ずしも最新のデータを盛り込むのではなく、古い図をそのまま印刷している場合が多いので、残念ながらその時代に存在していたかどうか確定する決め手にはならないようだ。

No829 竹瓦界隈物語

囲碁倶楽部をPR
大正初期まで和田惣旅館も

1117o442  明治終わりから大正初め頃までの短い間しか名前が登場しないが、囲碁クラブのある和田惣という旅館もあった。
 明治43年『新撰南豊温泉記』の広告で「別府北浜竹瓦温泉通り/入湯御宿/和田惣旅館/邸内に、ローマチス、神経痛、等、最も特効の温泉あり。階上に東京方圓社、四段住田先生を招聘し、囲碁倶楽部を、設置し、午前九時より、午後拾一時迄、教授す。」と旅館2階で囲碁の指導をしていることをPRしている。方圓社とは「明治、大正の日本の囲碁組織」(ウィキペディアより)。
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1117o4315  掲載した明治44年の地図『豊後有名温泉図』を見ると、竹瓦温泉前の通りを西に行った所にあったようだ。
 大正4年『通俗別府温泉案内』の旅館一覧にも、「和田惣(宮下傳太郎)」が掲載されている。旅館主は別府宿屋組合の役員名簿にも登場し、大正三年三月三十一日当選通知、大正四年十月二十九日満期の評議員として鶴萬の鶴田萬吉とともに、宮下傳太郎の名が記されている。大正9年現在『別府旅館能力調査表』などその後の資料には旅館名が出てこない。(続く)

No828 竹瓦界隈物語

寄席「別府館」もあった
明治41年地図にすでに掲載 大正初期の本に出てくるが

1116o2  前回に続き、読者に情報提供を呼びかけるねらいも込め、記者自身まだよくわからない事柄についても取り上げさせていただきたい。
  ◇  ◇  ◇  
 大正時代の別府案内書(現在でいえばガイドブック)には、入湯客の無聊を慰める娯楽施設の紹介欄もある。劇場では松原公園に有名な松涛館(しょうとうかん)があったし、映画が盛んになると同じ松原公園の松栄館(しょうえいかん)、世界館といった映画館も紹介されている。また、寄席(浪曲などを上演したと思われる)として、なの字館(楠温泉そば)などとともに竹瓦温泉そばに別府館があったのだが、残念ながら、詳しいことがわからない。
  ◇  ◇  ◇  
 大正3年『別府町史』の娯楽場の一覧では、「寄席富士見館(大字浜脇)=注・浜脇館と同じと思われる/同別府館(大字別府)/同なの字館(大字別府)」の3つの寄席の名前を挙げているが、それ以上の説明はない。
 同4年『通俗別府温泉案内』も3カ所で、「□浜脇館 浜脇の海浜にある、建築も新らしい、設備もよい寄席である。□なの字館 は楠温泉近く、狭斜の巷にある小綺麗な寄席だ。□別府館 竹瓦温泉の近処にある寄席だ。」と書かれていて、別府館について竹瓦温泉そばということ以外は記されていない。
 同6年『泉都別府温泉案内』には、なの字館(楠温泉付近)、三友倶楽部(竹瓦温泉横手)、浜脇館(浜脇海岸)の3つがあげられていて、もしかしたらこの三友倶楽部が別府館のことなのかもしれない。この後は資料にも別府館の名前は見あたらず、短い期間で廃業したようだ。
  ◇  ◇  ◇  
 掲載したの明治44年のは地図の別府館だが、乾液泉(竹瓦温泉のこと)のすぐ西側にあり、寺院のような唐破風(からはふ)屋根もあり立派な構えの建物だったことがわかる。実は明治41年12月5日発行の同様の地図にも同じ絵で別府館が掲載されており、その頃からあったらしい。(続く)

No827 竹瓦界隈物語

田の湯で紅梅館も経営
朝日館の吉田ムラ 銀座裏からのち観海寺へ!?

1114o15  竹瓦温泉界隈にたくさんあった旅館について紹介してきたが、記者自身まだよくわかっていない旅館や施設のことも、少し取り上げてみたい。読者がご存じのことがあれば情報提供をお願いしたい。
  ◇  ◇  ◇  
 竹瓦温泉あたりの旅館を掲載した明治43年の地図『豊後別府二条泉及乾液泉之図』は、朝日館という旅館が主なスポンサーだったようで、地図の枠外に旅館の広告文が掲載されている。「豊後別府北浜竹瓦温泉通四ツ角/入湯旅館/朝日館/吉田ムラ/(電信略号ヨム)」とあり、さらに「本館は位置図に示す如く枢要顕著なる事は来賓の悉知する処なり何処の温泉にも便且つ邸内に特効の温泉あり」(読みやすいようにカタカナをひらがなに変えた)と記している。旅館の位置が町の中心部にあることや、(竹瓦温泉や二条泉など)どこの温泉にも近くて便利がよく内湯もあるとPRしている。
 掲載した地図の上のほうにあるのが朝日館で、現在で言うと裏銀座の通りと、西法寺山門―波止場神社の縦通りの交差点北東角。2階建ての大きな旅館だったようだ。なお、竹瓦温泉(乾液泉)は地図の左下に見える。
  ◇  ◇  ◇  
1114o2  朝日館の吉田ムラが大正時代になって田の湯で経営した紅梅館は、のちの見晴館で3階建ての立派な旅館だったし、どういう事情か、昭和の時代には観海寺に朝日館があった。
 大正9年現在『別府旅館能力調査表』を見ると、朝日館(吉田清五郎、創業明治44年9月11日)に加え、田の湯に紅梅館(吉田ムラ、大正7年12月30日)があり、さらに朝日館と同じ北浜に喜和屋(好田寅松、大正6年12月22日)もあって、同じ吉田(好田)で3軒を経営したということなのだろうか。
 大正12年『豊後温泉地旅館名簿』では朝日館(明治40年9月11日=注・年号はこちらのほうが正しいようだ=)が好田寅松に変わり、田の湯にやはり紅梅館(吉田ムラ、大正7年12月30日)がある。これらの資料だけから見れば、吉田(好田)家は朝日館に加え、大正時代に喜和屋、田の湯の紅梅館と拡張したようだ。
 昭和になると、商工人名録の昭和6年(『温泉の別府案内』)に「北浜/朝日館/好田寅松」、同12年(『別府案内』)に「田の湯/朝日館/好田寅松」、さらに同13年『電話番号簿』では「朝日館/好田寅松/観海寺温泉場」と資料ごとに朝日館の所在地が北浜→田の湯→観海寺と動いたことになるわけだが…。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載した明治43年『新撰南豊温泉記』の広告には「豊後別府町竹瓦温泉場/入湯御宿/朝日館/電話一三六番/客室多数。空気の流通能く邸内に特効無類の温泉あり眺望又頗る絶佳なり。」とあって、客室数が多かったことがわかるし、現在なら料飲街の真ん中にあって「眺望絶佳」という言葉はぴんと来ないが3階建ての建物が少なかった当時は、2階からでも十分眺めがよかったのだろう。なお「空気の流通」は当時の衛生観念から来る言葉だろう。
 ※大正終わり頃と思われる朝日館の旅館案内ハガキには「別府竹瓦温泉場/朝日館/本店館主/好田泰久」とまた別の名前が出てくる。

No826 竹瓦界隈物語

イリコ製造や酒売り捌きも
石垣の対岳楼で学んだ鶴田萬吉 明治22年創業の鶴萬旅館

1113o15  竹瓦温泉界隈の有名旅館の一つが鶴萬旅館。のちに経営した能都弥七の項ですでに名前が登場したが、もともと創業者鶴田萬吉の名前を縮めて鶴萬となった。
 明治22年創業(大正9年現在『別府旅館能力調査表』)と界隈の旅館の中でもとびきり古く、竹瓦温泉が有名になるより前から別府港のすぐそばだったために、入港した客が利用していたのだろう。
1113o2  明治35年『新選豊後温泉誌』には広告が掲載されており、「入湯御宿/煎子製造販売並ニ酒類売捌所/豊後国別府町海岸北詰/芳泉楼事/鶴田萬吉」とあって、イリコの製造や酒の売りさばきの商売もした。「芳泉楼」という優雅な別名もあったようだ。広告には鶴萬旅館という言葉が出てこないが、古い時代は経営者の名前をそのまま掲げることが多かったようだ。ちなみに『別府旅館能力調査表』によると、鶴萬と別に鶴萬別荘(大正3年創業)もあった(いずれも3階建て)。場所は波止場神社海側だったようだ。
  ◇  ◇  ◇  
1113o2_2  掲載した明治43年の地図では温泉前の縦通り、竹瓦温泉通りの突き当たりに位置している。当時はすぐそばに港が迫っているが、のちにはここに海岸通り(国道10号線)が走ることになる。掲載した絵葉書は海岸通り側から北西に向かって撮影したもの。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※幕末、石垣の矢田希一が開設した私塾「対岳楼」に鶴田萬吉も通ったようだ。2003年版『別府市誌』に「塾生は200名にも及び、その中にはのちの別府町長高倉駒太や植木岸太郎、同じく浜脇町長河下四郎、別府町会議員友永平次郎・荒金貫一・小野武夫・鶴田萬吉など、次代を担う若者たちが数多く学んでいた。」とある。
 ※鶴萬旅館とは直接関係ないが、別府小学校を明治25年5月に卒業した日名子寿録氏の回想文(昭和10年発行の北小『創立六十周年記念誌』収録)によると、伝染病が流行して別府港に入港する客が一人一人消毒させられたことがあったという。「今の鶴萬の処と思ひますが、砂地の真中に三尺角位の箱が据って居って其中に入れられ首ばかり出し」と奇妙な消毒風景を子供の頃に見たそうだ。鶴萬旅館あたりがまだ砂地だった時代があったわけだ。

No825 竹瓦界隈物語

大正5年に平野屋別荘も
田辺博子さん 父と泳いだ北浜海岸の思い出

1112o1  平野屋旅館は明治37年竹瓦温泉ま裏で開業し、大正5年には海岸沿いに別荘も建てた。
 掲載した砂湯の絵葉書は海岸通りもまだ十分にはできていない頃だが、石積みの背後に見える2階建ての戸袋には「旅館」と横書きし「平野屋別荘」と縦書きした看板が2カ所見える。
 平野藤三郎が経営し、次男国松が継いだが、その長女田辺博子さん(87)は大正13年に3階建てに建て替えた時、餅まきしたことを記憶しているという。
1112o15  その後、平野国松は昭和7年6月20日に市会議員に当選し8期も続けることになる(その間、4年間市議会議長もつとめた)が、選挙費用のため両方の旅館を手放したという。田辺さんは「市会議員に出たのは近所の人たちが国ちゃんに出てもらおうと推したため」と話している。
  ◇  ◇  ◇  
 竹瓦温泉界隈は当時北浜と呼ばれていたが、田辺さんは「海岸通りは金持ちが泊まる大きな旅館が並んでいたが、海岸より上は木賃宿ばかりで、近所の店と共存共栄していた」と子供の頃の北浜の和やかな雰囲気を語っている。
1112o2  海水浴に砂湯にと賑わっていた北浜の海岸については、「埋め立てたのは腹が立つ」と残念がっている。「お客が1カ月間ほどやってきて泳いで満足していた。海水着は自分持ちだが、浮き輪などを貸す商売があった。体が冷えるから飴湯を売る店も出た。今の湯布院のように活気のある町だった」。また「1歳の頃父の背中で泳いだ。ちょっと大きくなると手にすがって泳いだ。父は暴れん坊将軍だったが、私には甘かった」と父との海水浴の思い出も懐かしんでいる。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※平野国松は14代(昭和26年3月7日―28年3月6日)と15代(昭和28年3月6日―30年2月19日)の市議会議長をつとめた。長年消防に関わり、昭和22年から42年まで消防団長をした。
 ※昭和6年『温泉の別府案内』商工人名録では「平野屋/津田秀八」、昭和10年代の『別府市旅館案内』では「平野屋/津田リン」とすでに経営者が変わっている。

No824 竹瓦界隈物語

温泉すぐ裏で入浴至便
明治37年創業の平野屋 大正5年に海岸別荘も

1111o1  竹瓦温泉のま裏には平野屋旅館があった。明治37年4月13日と創業が古く(大正9年現在『別府旅館能力調査表』)、同40年『豊後温泉誌』の旅館一覧にも北浜地区12軒の1つにあげられている。
 掲載した明治43年『新撰南豊温泉記』の広告には「別府竹瓦温泉前/入湯旅館/平野屋/有名なる、竹瓦温泉は、直前なるを以て、入浴に至て便なり。」とあって、竹瓦温泉の入浴にはとても便利がよかった。
  ◇  ◇  ◇  
1111o2  子孫で平野国松長女の田辺博子さん(87)は「竹瓦温泉の裏が平野屋、その隣が伊予亀だった」と話している。
 掲載した絵葉書に見える竹瓦温泉は、明治35年築の平屋建て。画面奥に2階建てが見えるのが平野屋だったと思われる。
 大正5年には海岸に平野屋別荘を建てている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※『別府旅館能力調査表』では「平野屋/平野藤三郎/木賃/3階/(客室数)11/(収容人員)29/(創業)明治37年4月13日」、「平野屋別荘/平野藤三郎/(電話)540/木賃/2階/9/26/大正5年4月10日」とある。
1111o2_2  ※大正12年『豊後温泉地旅館名簿』では旅館主が平野国松に変わっている。

No823 竹瓦界隈物語

裸一貫から3旅館経営
『大別府人物史』能都弥七の巻より 大黒屋・同別館に鶴萬も

1110o1  昭和10年『大別府人物史』には、裸一貫から3つの旅館を経営するまでに成功した立志伝中の人物として、能都(のいつ)弥七のことが紹介されている。
 それによると、明治18年滝尾村(現在の大分市滝尾)の農家に生まれ、父を助けて家業に励んでいたが、一生草深い田舎に埋もれたくないと別府へ。人力車を引いて刻苦精励、血の滲むような奮闘を続け、大正7年6月田の湯に旅館「やよい館」を開業した。
 大正11年に竹瓦温泉通りに大黒屋旅館を開業。昭和6年6月には北浜海岸通りに大黒屋別館を新築開業し、さらに同8年6月鶴萬旅館を経営した。現在(昭和10年)、大黒屋本館、同別館、鶴萬の3旅館を一手に経営し、満員の繁昌を呈しているとある。
1110o162  未生流の生け花の免許皆伝、妻クラとの間に一男二女がいる、といったことも記し、「裸一貫から叩き上げて今日三軒の旅館を経営するに至ったことは確に推称していい立志伝の第一人者であらう」とある。
  ◇  ◇  ◇  
 大黒屋は前回紹介したように明治時代から竹瓦温泉東隣りにあり、元は藤田という人が経営していた旅館。現在の竹瓦温泉(昭和13年築)ができる時に立ち退き、向かい側にあったきのや旅館を借りて営業を続けた。掲載した昭和16年の地図を見ると、竹瓦温泉の向かい側に大黒屋本館(きのや旅館の位置)があることがわかる。
1110o122  また、新築開業した大黒屋別館とは、海岸通りの新宮通り角の松嶋屋北側にあった。
 鶴萬旅館は、竹瓦温泉通り(温泉前のたて通り)の突き当たりにあったやはり明治時代からの古い旅館で、そこを引き継いだということだろう。
 この昭和10年の時点で3つの旅館を竹瓦温泉そばと海岸通りで経営していたとは、「立志伝の第一人者」と称えているのもうなづける。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和12年『別府案内』の旅館名簿には大黒屋本家(能都弥七)、大黒屋別館(能都クラ)、鶴萬(能都シズコ)とある。
 ※昭和10年代の『別府市旅館案内』には大黒屋(能都静子)、大黒屋別館(能都クラ)、鶴萬(能都弥七)とある。
 ※上記2つの旅館名簿には霊潮泉南側にあった大黒屋支店も掲載されているが、旅館主幸鐘太郎は、関屋旅館の林テツ、大黒屋別館の能都クラと兄弟という。
 ※大正12年『豊後温泉地旅館名簿』の田の湯の項に大正10年9月24日創業として、弥生館(能都弥七)が載っている。

No822 竹瓦界隈物語

温泉東隣だった大黒屋
古くは藤田寿吉が経営 のち能都弥七が成功収める

1109o2  現在の竹瓦温泉は玄関に向かって左手が砂湯の施設、右手が共同湯の施設。かつての温泉は左側半分だけで、右側は大黒屋という旅館だった。
 掲載した明治43年発行の地図『豊後別府二条泉及乾液泉之図』では、乾液泉(竹瓦温泉のこと)のすぐ海側に2階建ての大黒屋が描かれている。その北側にはのちに5階建てになる森屋旅館(当時は3階建て)も見える。
 掲載した大正時代の絵葉書には、2階建てと3階建ての大黒屋が写っているが、ちょうど現在の竹瓦温泉の東半分に相当する。絵葉書のタイトルは「豊後別府竹瓦温泉東角大黒屋旅館(電話五二九番)」。画面奥に見えるのは鶴萬旅館と思われる。
1109o2_2  大黒屋前の道が現在の竹瓦温泉前の道で、やけに狭すぎるように感じられるだろうが、年配の人たちは、かつては今のように広くなくヒットパレードクラブ前あたりと同じ道幅しかなかったと思い出を語っている。
 大正9年現在『別府旅館能力調査表』によると、旅館主は藤田寿吉で、電話529、旅籠、3階建て、12室、35人収容、創業が明治27年4月16日と非常に古い。別に大黒屋別荘(藤田寿吉、旅籠、3階建て、13室、36人収容、大正5年9月25日創業)もあったようだ。
 大正12年『豊後温泉地旅館名簿』でも、若干数字が違うが明治37年4月16日創業の大黒屋(電話519=注・529の誤り、旅館主藤田シゲ)、さらに大正12年7月23日創業の大黒屋別館(藤田寿吉)も掲載されている。
 のちの旅館名簿には能都弥七という名前が登場し、活躍したようだ。(続く)

No821 竹瓦界隈物語

戦後は大分交通会長
きのやの金居曹三 市政の“ご意見番”も

1107o2  きのやの金居曹三は昭和54年6月1日に亡くなったが(享年95歳)、翌日の今日新聞には「戦前は別府市会に籍をおき民政党二十日会の知将として活躍した。政争華やかな時代を生き抜いて民政党支部長まで勤めたが戦後は別府市農業会長をつとめるかたわら大分交通監査役、同取締役(計二十一年)を経て三十四年から取締役会長となり十一年間勤続した。」、さらに「実業人となってからも、別府市政その他重大問題が出てくると指導を受けるところから、ご意見番といった役柄だった」と大分交通取締役会長を長くつとめただけでなく、市政についてもご意見番という重要な人物だったことを記している。
 ちなみに戦前岩屋護氏が出した今日新聞では、ちょうど半世紀前の昭和4年10月22日付け新聞の「旅館巡訪」シリーズ5回目で、喜野屋について「二十日会でも策士組の金居曹三氏の喜野屋はのれんも古いし、落着いた感じ、さう建物も立派とは言へず派手な営業はしてゐないが久しい間の商売で立派な顧客も持ってゐる。サービス本位で大して肩もこらず、竹瓦温泉にも近いし、先づ便利なところである。」とあり、「策士」と評している。
  ◇  ◇  ◇  
1107o2_2  長男通夫さん(87)によると、戦争中金居曹三は議会から市長に推されたことがあったらしいが「高血圧だったので断った。おかげで戦後公職追放にあわずにすんだ」。また若い時和仏法律学校(現在の法政大学)で法律を学んだが、家に呼び戻されて卒業はしなかった。「なぜか、卒業生名簿に載っているんですよ」と話している。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※前回長兄光治が関西同盟汽船別府支部につとめたことを書いたが、2003年度版『別府市誌』によると、明治時代汽船会社同士の競争が激しくなったためにできた会社で「そのため、競合する会社が23年に関西同盟汽船部を設立して、乗車券の共同発売や船の登録トン数による利益の配分などを行った。」と解説している。
 ※『大分交通四十年のあゆみ』によると、昭和29年11月28日―同45年11月24日取締役をつとめ、この間、昭和34年3月28日―45年11月24日が取締役会長だった。

No820 竹瓦界隈物語

優秀だった長兄光治
きのや旅館 政党幹部もした金居曹三

1106o1  竹瓦温泉前の広い駐車場にあったきのや旅館。男4人の兄弟のうち一番下だった金居曹三があとを継ぐことになった。
 ところで、長兄の光治は22歳の若さで亡くなったが非常に優秀な人物だったと伝えられており、周囲の人からとても惜しまれたようだ。野口墓地には「金居光治之碑」が建てられ、そのプロフィールが刻まれている。それによると、8歳の頃から学問を学び、明治30年(20歳の時)関西同盟汽船別府支部に奉職し、一生懸命に働いたが病魔に襲われて同32年8月に他界した。温厚な人柄だったと記されている。関係者によって碑が建立されたのは同年12月。
 曹三の長男、通夫さん(87)によると、原因は盲腸だったようで「今ならば何ということもない病気なのでしょうが」と話している。
  ◇  ◇  ◇  
1106o15  曹三はのちには大分交通の会長などを長くつとめたが、戦前は旅館主と同時に、市議会議員をつとめ、政争の激しかった当時、二十日会の代表もしていた。
 通夫さんは「二十日会の代表で、選挙の時は大変だった」。また「人の世話もよくしていました」と話している。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
1106o2  大正14年『大別府大観』には次のように記されている。「金居曹三氏(市会議員)大分県別府市の出身にして旅館業を営み宿屋組合評議員等致し更に大正十三年六月市制施行当時市会議員に当選し現在に至る/(別府市竹瓦温泉場通り)(電話二六九番)」

No819 竹瓦界隈物語

明治33年創業のきのや
温泉前に大きな敷地 昭和12年から大黒屋に

1105o2  竹瓦温泉前にある大きな駐車場が「きのや旅館」の跡。明治33年と古くからあった旅館だが、昭和12年から大黒屋旅館に貸し、さらに戦後は貸間となった。
1105o1  明治44年の地図にも登場し、同42年『別府温泉誌』にも広告が掲載されている。文面は「豊後別府竹瓦温泉場東角/金居和市/入湯旅館/紀の屋/本館は有名なる竹瓦温泉と海浜浴沙に近く家屋新築にて空気の流通に意を用ひ客室広闊にして前は別府湾に望み風景明媚邸内に特効の温泉ありて入浴に尤も便なり」としており、有名温泉の竹瓦温泉と海岸砂湯に近いことが売り物だった。
1105o2_2  この頃新築したばかりだったことや、内湯があったこと、旅館主が「金居和市」だったこともわかる。旅館名は「紀の屋」となっているが、ひらがなで表記したり、喜ぶの「喜」や「木」を書いたり、資料によってさまざまに登場する。
  ◇  ◇  ◇  
 大正4年『通俗別府温泉案内』では「木野や/金居兵一」、大正9年現在『別府旅館能力調査表』では「喜野屋/金居曹三/(電話番号)269/木賃/2階/(客室総数)19/(収容定員)57/(創業)明治33年10月11日」となっており、旅館主が和市→兵一→曹三と変わっていることもわかる。
 金居曹三長男の通夫さん(87)=石垣東=によると、金居喜太郎・ツヤの子供は光治(明治32年8月10日没、22歳)、和市(明治44年4月18日没、32歳)、兵一(昭和11年8月25日没、55歳)、曹三(昭和54年6月1日没、95歳)の男兄弟4人に、杵築の木元家に嫁いだマツ(木元家は東村の村長をした)がいた。
 長男光治は若死にし、和市も早く亡くなり、兵一は戦争に行ったため、曹三が早くから旅館を継ぐことになったという。(続く)

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No818 竹瓦界隈物語

2度の火災ごとに変化
戦後も営業伊予亀旅館 美しかった土産品屋台の灯

1104o2_4  愛媛県大洲出身の二宮修一・ユキヱ夫婦が大正9年から経営するようになった竹瓦温泉の裏手、森屋旅館北側の伊予亀旅館。掲載した2枚の旅館の絵葉書は、2度の火事に見舞われたことがきっかけで旅館が変化していった過程を物語っている。
 前回も紹介したが、大正9年頃はまだ2階建てで「伊予鶴」と名乗っていた(同年現在『別府旅館能力調査表』などからわかる)。その後火災に遭い、3階建ての伊予亀旅館としたのが上の写真と思われる。画面左端や背景が不自然に白っぽいのは、隣接する旅館などを修正して消したもの。右端に写るマツは波止場神社。
1104o2_5  なお、絵葉書のタイトルで「別府竹瓦温泉場伊予亀旅館」の前に「大洲二宮支店」とあるのは、事情は分からないが、大洲にも旅館があったということかもしれない。
  ◇  ◇  ◇  
1104o15_4  もう1枚は「新築落成/別府市竹瓦温泉場/伊予亀旅館裏手通(電話九三二番)」と説明があり、昭和3年の森屋の火事で半焼した伊予亀旅館がリニューアルした姿と思われる。手前のぽっかり空いた敷地は再建中の森屋旅館だろう。
 画面右端が玄関で、その向こうのマツの木は波止場神社。画面左側が別館で屋上に大勢の宿泊客が景色を楽しんでいる。屋上に展望室が見えるが、「六角堂」と呼ばれていた。
  ◇  ◇  ◇  
1104o15_5  ※戦前の今日新聞(昭和4年10月22日付け)の「旅館巡訪」シリーズ5回目に、伊予亀旅館について簡単に触れており、「近々の間に二度も火事に遭った」とあり、昭和3年の森屋の火事より前にも被災したことがわかる。
 同じく今日新聞(昭和5年1月28日付け)の北浜海岸の巻の2に「先日五階で有名だった森屋が焼けた時は大黒屋も伊予亀も半焼したのだった。」とある。
  ◇  ◇  ◇  
 伊予亀旅館は戦後も営業していた。3代目故二宮敏光さんの次男敏泰さん(51)=山香町=は子供の頃の旅館の思い出を、「団体客(どこかの大学のヨット部)が泊まりにくると、必ず土産品の屋台が玄関先にずらりと並んだ。竹の人形やザボンを売っていたような記憶がある。子供心に屋台の小さな電球の光が幻想的だったことを覚えています」と語っている。(続く)


No817 竹瓦界隈物語

伊予鶴から伊予亀へ
大洲出身の二宮家経営 2度と火事ないように改名

1102o1  森屋旅館の北側にあったのが伊予亀旅館(波止場神社そば)。掲載したのは戦後の旅館の写真で、左隣りにちょっと写っているのが森屋。右側には(写っていないが)波止場神社がある。実は画面上部に、先年亡くなった二宮敏光さんが廃業時に書き込んだ文字があり、「祖父修一、父ただし、長男敏光、三代続いた我が家の面影。昭和46年10月売却、消え去る。自分が育った我が家、淋しい思い出の家でもある。せめて我が子3人が育んだ家であっただけでも幸いである。」と3代続いた旅館との別れに、痛切な思いを記している。
  ◇  ◇  ◇  
1102o25  書き込みのように、初代は二宮さんの祖父母二宮修一・ユキヱ夫婦で、2代目が父(ただし、「衷」の左上に「ノ」がある特殊な字体)、3代目が二宮さんだった。二宮家は愛媛県大洲の出身。
 掲載した明治44年の地図『豊後有名竹瓦温泉及二條温泉之図』にもすでに登場しているが、大正9年現在『別府旅館能力調査表』で大正9年2月19日創業(旅館主は二宮ユキヱとなっている)となっているのは、二宮家が旅館を始めた時期を指しているようだ。大正4年『通俗別府温泉案内』の旅館一覧では、旅館主が「宮本幾三郎」となっており、そのあとを二宮修一夫婦が買い取って引き継いだと思われる。
  ◇  ◇  ◇  
1102o4415  ところで、不思議なことに旅館名が時期によって伊予亀→伊予鶴→伊予亀と変わっている。明治の地図や大正4年『通俗別府…』では伊予亀だが、大正9年現在『別府旅館能力…』では伊予鶴、同じく大正9年の『別府温泉案内』でも伊予鶴となっている。その後、昭和になってからの資料には伊予亀の名前に戻っている。
 子孫の話では「伊予鶴旅館が火事で焼けた後、二度と火事にならないように、末永く繁盛するようにと、『鶴は千年、亀は万年』ということわざから伊予亀に変えた」と聞き伝えているそうだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※創業年について、大正12年『豊後温泉地旅館名簿』では月が少しだけ異なり、大正9年の4月19日としている。
 ※掲載した明治44年『豊後有名竹瓦温泉及二條温泉之図』の中央やや右側にある2階建てが伊予亀で、斜め後ろに「イヨカメ別室」という別館があり、廊下でつないでいたことがわかる。森屋との間には武蔵屋という小さな旅館があった。画面右端が波止場神社。
 ※大正9年現在『別府旅館能力調査表』では、旅館規模は「2階建て、客室総数12、定員31人」となっている。
 ※昭和6年『温泉の別府案内』の商工人名録では「北浜/伊予亀/二宮ユキヱ/九三二」、同12年『別府案内』の商工人名録では「北浜/伊予亀/九三一(注・九三二の誤り)/二宮修一」、同13年『電話番号簿』では「伊予亀旅館/二宮修一/932/竹瓦町」、昭和10年代の旅館名簿では「伊予亀/九三二/ハ/二宮修一」となっている。

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