No823 竹瓦界隈物語
裸一貫から3旅館経営
『大別府人物史』能都弥七の巻より 大黒屋・同別館に鶴萬も
昭和10年『大別府人物史』には、裸一貫から3つの旅館を経営するまでに成功した立志伝中の人物として、能都(のいつ)弥七のことが紹介されている。
それによると、明治18年滝尾村(現在の大分市滝尾)の農家に生まれ、父を助けて家業に励んでいたが、一生草深い田舎に埋もれたくないと別府へ。人力車を引いて刻苦精励、血の滲むような奮闘を続け、大正7年6月田の湯に旅館「やよい館」を開業した。
大正11年に竹瓦温泉通りに大黒屋旅館を開業。昭和6年6月には北浜海岸通りに大黒屋別館を新築開業し、さらに同8年6月鶴萬旅館を経営した。現在(昭和10年)、大黒屋本館、同別館、鶴萬の3旅館を一手に経営し、満員の繁昌を呈しているとある。
未生流の生け花の免許皆伝、妻クラとの間に一男二女がいる、といったことも記し、「裸一貫から叩き上げて今日三軒の旅館を経営するに至ったことは確に推称していい立志伝の第一人者であらう」とある。
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大黒屋は前回紹介したように明治時代から竹瓦温泉東隣りにあり、元は藤田という人が経営していた旅館。現在の竹瓦温泉(昭和13年築)ができる時に立ち退き、向かい側にあったきのや旅館を借りて営業を続けた。掲載した昭和16年の地図を見ると、竹瓦温泉の向かい側に大黒屋本館(きのや旅館の位置)があることがわかる。
また、新築開業した大黒屋別館とは、海岸通りの新宮通り角の松嶋屋北側にあった。
鶴萬旅館は、竹瓦温泉通り(温泉前のたて通り)の突き当たりにあったやはり明治時代からの古い旅館で、そこを引き継いだということだろう。
この昭和10年の時点で3つの旅館を竹瓦温泉そばと海岸通りで経営していたとは、「立志伝の第一人者」と称えているのもうなづける。(続く)
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※昭和12年『別府案内』の旅館名簿には大黒屋本家(能都弥七)、大黒屋別館(能都クラ)、鶴萬(能都シズコ)とある。
※昭和10年代の『別府市旅館案内』には大黒屋(能都静子)、大黒屋別館(能都クラ)、鶴萬(能都弥七)とある。
※上記2つの旅館名簿には霊潮泉南側にあった大黒屋支店も掲載されているが、旅館主幸鐘太郎は、関屋旅館の林テツ、大黒屋別館の能都クラと兄弟という。
※大正12年『豊後温泉地旅館名簿』の田の湯の項に大正10年9月24日創業として、弥生館(能都弥七)が載っている。


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