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No861 映画館 あれこれ

本町にも戦前から
オリオン座の位置に 別府ニュース館があった

1226o162  前回紹介したように、戦前の映画館は松栄館、世界館、泉都座、大成館の4つ。ところが、戦後のオリオン座(流川通りから西法寺通りに入ってすぐの山手側)の位置にも、戦前から映画館があったらしい。
 掲載したように、昭和16年2月発行の地図「大日本職業別明細図・別府」を見ると、「別府映画会社」と表示されている。隣は米屋旅館、通りを挟んで日名子旅館(現在のデオデオの位置)もある。なお、略図であるため「別府映画…」が角にあるように書かれているが、実際にはそうではなかったようだ。
1226o1615  この地図の裏面には広告もあり、「別府映画会社/別府ニュース館/社長高野洲造」とある。(なお、前回の駅前通りの大成館はこの広告では「興亜映画劇場」と名前が変わっているようだ)
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 ところで前年昭和15年2月発行の『別府市街図』では、同じ位置に「新映劇場」と書かれており、同じ地図の施設紹介の「娯楽場」の項には映画館として順に世界館(松原)、松栄館(松原)、泉都座(中浜通り三)、興亜映画劇場(駅前通り)、新映劇場(本町)とある。ということで、少なくともこの昭和15、16年の頃には映画館で本町の新映劇場(別府ニュース館)が存在したようだ。(続く)
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 ※845回オリオン座について、西原光彦さんから「オリオン座の頃は福地フルーツは日名子旅館のほうにあったのでは」という指摘をいただいた。住宅地図では、昭和29年は流川通り側から順に安部ラジオ、若葉食堂、オリオン座となっていて、同31年と34年では橘屋菓子舗、若葉食堂、ロマン座となっていました。ご教示ありがとうございました。


No860 映画館 あれこれ

戦前はわずか4館
大成館は大正15年駅前通りに

1225o2  前回は、昭和35年は別府市内に25館もあって、年間278万人が入場したという話題だったが、では戦前の映画館はどうだったのだろうか、少しだけ探ってみたい。
 昭和8年『別府市誌』の「別府の活動写真館」の項を見ると、掲載されているのは松栄館、世界館、帝国館、大成館の4館だけで意外に少なかった。
 この連載では松原公園の松栄館と世界館や、市役所下(旧庁舎)の中浜通りにあった帝国館(前身は豊玉館、のち泉都座)については紹介したことがあるので、もう一つの大成館(戦後は国際館)について紹介したい。
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1225o15  駅前通り(停車場通り)の銀座街入口にあった大成館は、大正15年(1926、12月25日以降は昭和元年)に開業したようだ。同市誌には「現営業主の創業は昭和四年十二月三十一日なり」とあって、そもそもの開業年には触れていないが、『現聞日誌』という郷土史料には大正15年5月に落成式の餅まきがあったことが記されている。
 今回掲載したのは「別府名所停車場通り」と題する絵葉書で、海岸通りと駅を結ぶ電車が走り始めた頃(昭和4年5月営業開始)の風景と思われる。位置は現在の国際通りソルパセオ入口の山手角で、堂々とした建物が目を引く。
 もう一つ掲載したのは昭和12年12月5日の日付が入っているチラシ「大成館週報」で、この頃は大都映画や極東映画といったB級映画会社の作品を上映していたようだ。(続く)
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 ※昭和8年『別府市誌』の記述は次の通り。「大成館/所在地 別府市大字別府停車場通。/営業主 福岡市博多 河野政次郎。/建物 建坪約二百坪、最近の建築に係る。現営業主の創業は昭和四年十二月三十一日なり。/映画 日本物は松竹キネマ、東亜キネマの供給を受け、外国映画はメトロ、パラマウント、ファースト各社の製作品を映写す。」
 ※『現聞日誌』は南石垣の人が明治から昭和まで毎日の出来事を記した日記。日付は旧暦で書かれており、大成館の上棟式については大正十四年の十二月三十日(→新暦では大正15年2月12日)に「駅通活動常設館上棟式餅マキ(大成館)」、大正十五年四月十一日(→新暦では大正15年5月22日)に「駅通リ大成館落成式餅マキ。」、さらに同年六月十六日(→新暦で7月25日)に「大成館ニテ釈迦一代記ノ活動」と書かれている。

No859 安藤さん描く 戦後の映画館

半世紀前は278万人
昭和35年の市内25館入場者数

1224o15  戦後熱心に映画を見続けてきた安藤允己さん(76)の絵筆による、当時の映画館20軒の紹介が一通り終わった。恐らく写真に残されていない映画館も多いと思われるが、絵という形でその姿が記録されたことは大変貴重なことで、安藤さんに感謝したい。
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1224o15_2  さて、別府市が発行する『別府市勢要覧』の1961年版と62年版には、それぞれ昭和35年(1月―12月)と翌36年(同)の映画館入場者数(別府税務署調べ)が掲載されている。昭和35年(合計25館)の年間入場者数は合計278万6452人、翌36年(23館)は216万8578人と現在からは想像できないような数字だった。(続く)
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 なお内訳は昭和35年が▽邦画・封切8館/144万9621人(入場人員、以下同じ)/4602人(収容人員、以下同じ)▽邦画・再映13館/93万3065人/2411人▽洋画・封切1館/14万6554人/482人▽洋画・再映3館/25万7212人/1053人
 昭和36年の内訳は▽邦画・封切6館/90万5119人/3157人▽邦画・再映14館/100万1039人/2851人▽洋画・封切2館/21万2224人/608人▽洋画・再映1館/5万196人/216人

No858 安藤さん描く 戦後の映画館

ボウリングも流行った
テレビ普及で映画下火に ニコニコ館と第二ロマンも

1222o15  「ほかに娯楽がなかった。それにアメリカの高度な文化生活への憧れもありましたね」と昭和20年代から30年代半ばまで熱心に映画に通った安藤さん。いつのまにか映画館から足が遠のいてしまったという。
 昭和34年の皇太子(現在の天皇)ご成婚や同39年の東京オリンピックなどをきっかけに普及していったテレビの影響で、映画人気は下火になっていった。
1222o15_2  昭和40年代初めからは別府でもボウリングブームが始まり、たとえば映画館の東宝プラザがボウリング場に変わったりした。現在もあるスギノイボウルだけでなく、日名子や錦水園(現在はパチンコ店)、現在のナフコやマルショク餅ヶ浜店の位置と、いたる所にボウリング場があった。そういう映画以外の娯楽が増えていった。(続く)
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 第二ロマンは昭和31年頃にできたアメリカ映画専門の封切館で、その後松竹映画封切館の松竹ロマンに変わった。
 昭和31年の住宅地図で見ると、北浜通り側から玉井洋品店や須山米穀店などいくつか店をはさんで第二ロマンがあった。
 ニコニコ館は西法寺前にあり、邦画の再映館で昭和30年から40年頃まであったのではないかという。その後は家具店になり、現在は駐車場になっている。
 ※昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「松竹ロマン/396(定員)/弥生町」「ニコニコ館/164/本町」、1959年版『別府市商工名鑑』では「松竹ロマン/首藤克人/弥生町/1559」「ニコニコ館/下森秀雄/本町/3663」となっている。

No857 安藤さん描く 戦後の映画館

流川2丁目に名画座
秋葉通り下には南映 残したかった倉持アパート

1221o15  邦画の再映館では流川通り2丁目に名画座があった。銀座街(現在の国際通りソルパセオ)入口が喫茶「一茶」、裏銀座の通りをはさんで、みのや絞店(絵では土産品店としている)があり、その隣りがちょっと引っ込んで名画座だった。
1221o15_2  同じく邦画の再映館で秋葉通りを下って10号線沿い(海側)に南映もあった。隣が三上青果、さらに倉持アパートの建物があって「別府では最初の本格的なアパート。残ればいいなあと思っていた」と安藤さん。
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1221o2グランドフェア跡地の北浜ロータリーで(中央が安藤さん)  掲載した若き日の安藤さんの写真は、グランドフェア(昭和25年4月1日から1カ月間開かれたグランドフェア・別府博覧会)跡地の北浜ロータリーで。ここはのちに別府国際観光会館となり、現在はトキハ別府店となっている。(続く)
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 ※昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』では「南映/85/浜町」と「名画座/108(定員)/流川」、昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「南映/134/浜町」と「名画座/178/流川」、1959年版『別府市商工名鑑』では「南映/利光義雄/御成町/908」と「名画座/鎌田フジ/港町/3208」と書かれている。

No856 安藤さん描く 戦後の映画館

別府に来た淀川長治さん
藤沢食堂でファンが囲む会 別信そばには羽衣松竹

1219o2  テレビの映画劇場の解説者として「さよなら、さよなら、さよなら」の名ぜりふで有名な故・淀川長治さん。「映画の友」編集長時代に別府に来たことがあったそうだ。
 安藤允己さん(76)によると、「私も間に合わなかったのですが、会場がなかったか何かで、楠銀天街の藤沢食堂で話を聞く会がありました」とのこと。
 藤沢食堂は秋葉通りから北へ入ってすぐの所にあった人気食堂。掲載した昭和31年の広告にもあるように、アイスクリームもよく売れていた。
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1219o1  掲載した安藤さんの写真は昭和33年11月6日の日付。背後の海は現在は北浜公園やヨットハーバーで埋め立てられ同じ風景を見ることができない。花菱ホテルや二条館が見える。
 羽衣松竹は安藤さんの記憶では昭和30年から35年頃まであった邦画の再映館で、永石通り3丁目と旭通り3丁目の間の海側にあった(現在の大分みらい信用金庫南支店下の通りを少し北に入った位置で道路の海側)。(続く)
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1219o15  ※昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「羽衣松竹/126(定員)/羽衣町」、1959年版『別府市商工名鑑』には「羽衣松竹/深田セイ子/羽衣町/4141」とある。

No855 安藤さん描く 戦後の映画館

ナイトショー見てかき氷
昭和29年から市役所勤め 市役所裏に日劇があった

1218o25  安藤さんは昭和29年から市役所に勤めた。もちろん、今の庁舎ではなく千代町にあった旧庁舎(現在は市立図書館などになっている)。この旧庁舎のすぐ裏手、旧国道と中浜通りの角にあったのが日劇で、主に東映作品を上映しており、1、2回入った覚えがあるという。
 隣は伊東畳店、筋向かいが電話局(現在の児童館)、向かいの三田川産業はもっと以前はローラースケート場だったように記憶している。
 松原公園の松栄館などでの思い出だが、土曜日の夜10時からは1本だけの半額のナイトショーがあった。「ナイトショーを見て、帰りにまるい食堂でかき氷を食べるのが最高の楽しみでした」と懐かしんでいる。
1218o15  なお、掲載した写真は昭和31・31年頃、市役所西口の玄関に立つ若き安藤さん。目の前が日劇だった。画面背後に見えるのは大分銀行の昔の建物で、画面左端は電話局。玄関には「別府市役所」と白く書かれているほか、「別府市観光協会事務局」と書かれた板が取り付けられているのも見える。(続く)
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1218o1  ※当時の住宅地図を見てみると、昭和29年では松下鉄工所となっているが、同31年では日劇ができており、同34年では東映と記されている。
 ※昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では、「別府日劇/395(定員)/中浜通り」となっており、1959年版『別府市商工名鑑』には「日劇/松下久次郎/中浜通/3613」と記されている。

No854 安藤さん描く 戦後の映画館

線路山手や海門寺通りにも
流川東映とトンボ東映あちこちにあった映画館

1217o15  こんな所にも映画館があったのかと驚く人もいるだろうが、流川通りと公民館通りの交差点にも東映封切館の流川東映があった。交差点の山手北角はレトロな洋館風の別府流川郵便局だったが、その向かい側(南角)が映画館だった。
 安藤さんは「郵便局の前にあり、上のほうに住んでいる人にはけっこう便利がよかった。道路の拡幅で立ち退いた。昭和33年から38年頃まであったのではないか」という。
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1217o15_2  封切・再映の「トンボ東映」は海門寺通りの的ケ浜温泉(現在は南的ケ浜温泉)の南側にあった。絵にあるように隣がトンボ堂で、「トンボ堂という理髪器具販売の人が映画館をやっていた」とのこと。
 ところで手元にある資料では、トンボ東映は昭和31年の住宅地図にはまだ出ておらず、同34年の住宅地図にトンボ映劇の名前で登場している。当時は映画館の並びに農協倉庫があったほか、倉庫の海側には竹細工の別府市立工芸研究所、またあけぼの保育園(あけぼの保育所)の位置には別府市公共職業安定所もあるなど、周囲に公共的な施設が多かった。(続く)
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 ※流川東映は1959年版『別府市商工名鑑』に「流川東映/有田秀雄/錦町/207」とある。
 ※トンボ東映については昭和46年版『別府商工名鑑』の「興業」の項に「(有)トンボ堂/渡辺進」と書かれている。

No853 安藤さん描く 戦後の映画館

俳優泊まった八坂ホテル
佐分利信や東映姫様女優ら

1216o2  安藤允己さん(76)=元南部地区公民館長、上原町=の描く戦後の映画館と、映画の思い出を紹介しているが、安藤さんが印象に残っているのが別府にロケに来た俳優たちがよく泊まった八坂ホテル。北浜通りの八坂ナイトタウンに姿を変えているが、町中にも関わらず広い庭のあるホテルだった。佐分利信が庭で椅子にかけているのを見かけたことがあるし、大映の喜多川千鶴、東映の桜町弘子なども来たと思う。日名子ホテルよりも多かったのではという。
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1216o15  前回紹介した映画の舞台を訪ねる海外旅行だが、「第三の男」のウィーンでは面影がなくがっかりしたという思い出もある。
 オードリー・へプバーンがジェラートを食べるシーンで有名な「ローマの休日」のスペイン広場の大階段(現在は飲食禁止)。「ちゃんと座って食べるのが日本女性なのに、へプバーンが歩きながら食べたので、それを見て真似するようになった。先だってはカップラーメンを道路を横断しながら食べているのを見てがっかりしました。ローマではマナーが厳しい」と安藤さん。
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1216o15_2  上記の映画と関係ないが、今回掲載したのは駅前通りにあったシネマパレスと新映。シネマパレスはヨーロッパの映画を主に上映する2番館だった。ポスターを貼っていた楠温泉そばの写真店から、招待券をもらって時々見に行った。新映のほうはいろいろな日本映画を上映していたように記憶している。(続く)
 ※シネマパレス、新映はそれぞれ、昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』では「シネマパレス/120(収容人員、以下同じ)/駅前通」「新映/80/駅前通」、1957(昭和32年)11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「シネマパレス/74/駅前通り」「新映/102/駅前通り」、1959年版『別府市商工名鑑』では「シネマパレス/古城清/海門寺町/1275(電話番号、以下同じ)」「新映/関利晴/北浜町/1715」とある。

No852 安藤さん描く 戦後の映画館

修道女の恋にショック
駅前通りのブルーバード デボラ・カーの「黒水仙」

1215o2  別府で唯一の映画館となった駅前通りのブルーバード。ここでは高校生の頃見たデボラ・カー主演のイギリス映画、「黒水仙」(1947年)が印象に残っている。ヒマラヤ山麓の女子修道院が舞台となった映画。男性に恋した修道女がデボラ・カーを恋敵と思って突き落とそうとするが、体をかわされて自分のほうが谷に落ちてしまう。
 「家が小百合愛児園のすぐそばで、シスターは神聖な人と思いこんでいた。そのシスターが恋に狂って真っ赤なドレスを着てデボラ・カーを突き落とそうとする。ショックでした」。
 修道院の建物のモデルはギリシアのパルテノンで、退職後の海外旅行で訪れた。ちなみに安藤さんは海外旅行歴47回。映画の舞台となった場所を訪ねることが大きな目的で、たとえばベネチアのサン・マルコ広場に行くと「ああ、ここがキャサリン・ヘップバーンの旅情の舞台か」と感激を味わうのだそうだ。
 ほかに記憶に残っている映画は、「第三の男」「にがい米」「太陽の季節」「蟹工船」「嵐を呼ぶ男」だった。(続く)
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 ※昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』では「ブルバード/150(収容人員)/駅前通」、同32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「ブルーバード/504(収容人員)/駅前通り」、1959年版『別府市商工名鑑』では「日活ブルーバード/中村弁助/北町/4470」となっている。
三 


No851 安藤さん描く 戦後の映画館

昭和31年ごろ別府東映
隣りの国際館は戦前からの歴史

1214o15  駅前通り南側のパチンコ店あたりには戦前からの歴史を持つ国際館があり、山手側に隣接して東映封切専門館の別府東映が昭和31年頃にできた。
 「別府東映は2階は前のほうの三分の一くらいが畳敷きで、飲みごとのあとは寝るのに便利がよかった。時には映画が面白くなって酔いが醒めたり…」と安藤さん。記憶に残っている映画は「宮本武蔵」「ひめゆりの塔」「瞼の母」「米」「忠臣蔵」。
 「ひめゆりの塔は、五社協定(※他社作品への出演が禁じられていた)の厳しい時代に、津島恵子があえて出演した。香川京子もこの映画が印象に残っている。忠臣蔵はどこの社も、正月になるとオールスターキャストで作っていたが、特に大映と東映は時代劇俳優をずらりと揃えていました」。
1214o15_2  隣りの国際館では大映の名作「羅生門」「王将」「座頭市物語」が印象に残っている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※国際館は戦前は大成館。昭和8年『別府市誌』には「大成館/所在地別府市大字別府停車場通。/営業主福岡市博多河野政次郎。/建物建坪約二百坪、最近の建築に係る。現営業主の創業は昭和四年十二月三十一日なり。/映画日本物は松竹キネマ、東亜キネマの供給を受け、外国映画はメトロ、パラマウント、ファースト各社の製作品を映写す。」と書かれている。
 なお、昭和10年代の地図には「興亜映画劇場」という名前でも登場している。
 ※戦後の国際館は、大映封切館だったが(1949年版『大分県商工銘鑑』には「国際館/別府市駅前通/大映封切/館主八坂真兵衛/電九八八番」とある)、昭和32年11月現在(昭和32年版『別府市勢要覧』)では「日活国際」、1959年版『別府市商工名鑑』では「東宝国際」(経営者宮本浩)と変化している。
 ※一方、別府東映は昭和30年7月現在(昭和30年版『別府市勢要覧』)では掲載されておらず、昭和32年11月現在では「別府東映/389/駅前通り」、1959年版『別府市商工名鑑』では「別府東映/森正幸/海門寺町/1815」となっている。

No850 安藤さん描く 戦後の映画館

お化け屋敷のメーク頼まれ
松原公園の花月館 怪談映画見ながら暗闇で写

1212o2  松原公園東側に今もユニークな建物の外観が残る花月館。戦後の一時期、大映・日活・洋画の上映をしていた。トイレの匂いが漂っていたことが印象に残っている。
 何事も器用にこなす安藤さんだが、浜脇薬師祭りのお化け屋敷のメーキャップを頼まれたことがある。どうやってよいのかわからなかったので、天知茂出演の怪談映画「累ケ淵」を2回も見て、暗闇の中でデッサンし、無事お化けのメイクをやりとげた。
 お化け屋敷の思い出では、扮装して会場に向かう途中、知り合いの奥さんに後ろから声をかけ失神させてしまったこともあったという。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』に「花月館/150(定員)/松原」と登場しており、2年後の昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「花月館/214(定員)/松原」、1959年版『別府市商工名鑑』では、「花月館/高橋熊太郎/松原町/1429」となっている。

No849 安藤さん描く戦後の映画館

「青い山脈」に憧れ
松原公園の松栄館楽しかった「ジャンケン娘」

1211o2  松原公園南東側に戦前からあった堂々たる映画館が松栄館。戦後は東宝と洋画(欧州映画)の封切館だった。
 今も主題歌が歌い継がれ、ラブレターに恋という字を「変(へん)しい、変(へん)しい」と書き間違えるエピソードでも有名な「青い山脈」。「我々にもこういう青春が来るのかなあと思ってみた。何度もリメークされているが、やっぱり最初のがよかった。言論の自由が戻ったという時代の背景があったからでしょうね」と安藤さん。
1211o1415  淡路恵子がデビューした「野良犬」。「今までの女優のお姫様のようなイメージと違って、アプレゲール(注・若者の無軌道をさす言葉)な感じ。ご本人は映画に興味がなかったそうです」。
 美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘が出た「ジャンケン娘」。「楽しかった。大ヒットして、続編が5本くらいできました」。ほかに、「望郷」「格子なき牢獄」「七人の侍」「東京オリンピック」「飢餓海峡」「人間の条件」「夫婦善哉」とたくさんの映画が記憶に残っている。
 「鉄腕投手稲尾物語」では、トレーニングで緑丘高校を出発したら、亀川・浜田の海岸で休憩するシーンがあり、あまりの突飛さに観客が大笑いになったことも印象に残っているという。別府が大いに賑わっていた頃で、「楠銀天街など、観光客と映画帰りの人がひしめき合っていました」と話している。(続く)
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 ※昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』では「松栄館/670(定員)/松原」、2年後の昭和32年11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「松栄館/726(定員)/松原」となっている。1959年版『別府市商工名鑑』には「松栄館/宮本浩/松原町/108」とある。
 ※前回まで紹介していなかった昭和30年7月10日現在=昭和30年版『別府市勢要覧』のデータが見つかったので、すでに取り上げた映画館の分を付け加えると、ナンバーワン劇場は掲載なしで、オリオン座は「ロマン座/425(定員、以下同じ)/本町」とロマン座という名称で掲載されており、そのほか「スバル座/330/楠町」、「泉都座/670/羽衣」、「世界館/380/松原」となっている。

No848 安藤さん描く 戦後の映画館

「二十四の瞳」に涙
松原公園の松竹封切「世界館」 “ただ入り”の失敗談も

1210o2  元南部地区公民館長の安藤允己さん(76)=上原町=に記憶に残る戦後の映画館の姿を描いてもらい、思い出を語ってもらっているが、今回は松原公園の南西側に戦前からあった世界館で、松竹映画の封切館だった。
 「『二十四の瞳』(木下恵介監督、高峰秀子主演)は涙が出た。その後リメークされたが、つまらなかった。同じ高峰秀子の『喜びも悲しみも幾歳月』も印象に残っている。小津安二郎監督の『東京物語』『早春』『彼岸花』も記憶に残っている。見終わってもしばらく、ああ、いい映画だったなあと感じました」。
1210o15  大ヒットしたラジオドラマの映画化で、岸恵子、佐田啓二が出演した「君の名は」(1953―54年)が上映された時には、世界館から永石通りまで行列ができる人気ぶりだった。
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 ところで、中学時代の安藤さんにはやんちゃな“ただ入り”の思い出もある。裏手の高野寺の塀から、便所の窓の格子を動かして入ったが、ある時、仲間の一人があわてて用便中のおじさんの上に飛び降りたため、大騒動になって追いかけられるという失敗もあった。
 当時の松原公園は賑やかで、「食堂、写真屋、玉突き場、お菓子屋、果物屋と何でもありました」と話している。(続く)
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 ※1949年版『大分県商工銘鑑』では「世界館/別府市松原/松竹封切/館主八坂真兵衛/電八二八番/銀大分合銀・東京銀行各支店」となっている。
 ※1957(昭和32年)11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「松原東映/456(定員)/松原」、1959年版『別府市商工名鑑』では「松原東映/関利晴/松原町/826」とあり、世界館から松原東映に変わっている。

No847 安藤さん描く 戦後の映画館

初めての天然色映画
市役所下の泉都座 台風で浸水した思い出も

1209o2  サザンクロス一帯が以前の市役所だが、裏手の中浜通りをちょっと下ると左側に泉都座があった。安藤さんが市役所に入ってからのことだが、台風の日に映画を見ていると、前のほうが騒ぎ出して館内に水が入ってきた。帰宅する時に楠銀天街を通ると、ひざまで水に浸かるほどだった。昭和36、37年頃のことだったという。
 中学生頃の思い出だが、「『ステートフェア』は初めての総天然色映画で、当時は何か美しい物を見ると、天然色映画みたいだと言った。『哀愁』もここで見たが、どうしてもビビアンリーが売春婦に見えなかった。『銀嶺セレナーデ』でフィギュアスケートなる物を生まれて始めてみました」と安藤さん。「ターザン」シリーズも感動しながら見たという。
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1209o2_2  泉都座は戦前からの映画館で、昭和21年―30年頃は洋画封切館、同31年からは大映その他の封切館となったという。(続く)
 ※1949年版『大分県商工銘鑑』では「泉都座/別府市中浜筋/アメリカ映画封切/館主三好清二郎/電九六八番」だが、1957年(昭和32)11月現在=昭和32年版『別府市勢要覧』では「別府大映/624(収容人員)/羽衣町」、1959年版『別府市商工名鑑』では「別府大映/木本カツ/羽衣町/968(電話)」と大映に変わっている。
 ※泉都座以前は帝国館、さらに同じ場所に大分県初の常設活動写真館「豊玉館」が大正2年からあった。

No846 安藤さん描く 戦後の映画館

チャップリンの偉大さ知る
なの字館がスバル座に 初のシネマスコープも上映

1208o2  楠温泉近くにあった洋画封切専門館のスバル座は、もともと古い寄席「なの字館」の建物を改造していた。安藤さんによると、建物は古くが、天井は寺や神社と同様の格式の高い格(ごう)天井で、2階には一部枡席も残っていた。
 なぜかここで画面が倍以上に広がる、最新式の初のシネマスコープ映画「聖衣」が上映された。
 チャップリンの偉大さを知ったのもここ。モダンタイムズなど、「百年先を見ている」と感じたという。
1208o15  スバル座は昭和30年頃からで、32年頃からストリップ劇場に、その後残念ながら焼失した。安藤さんの印象に残っている作品は、ほかに「旅情」「街の灯」「独裁者」など。当時周囲は料理や貸席、バー、喫茶店などが軒を連ね賑わっていた。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載したスバル座のチラシ(部分)。ストリップと洋画を催していた時期があったことがわかる。
 ※前回掲載した第一ロマンのチラシにロマンチェーンとして、「第三ロマン」が載っており、「スバル座改め」という添え書きから、スバル座から第三ロマンに変わったことがわかる。
 ※昭和32年11月現在(昭和32年版『別府市勢要覧』)では「第三ロマン/406/楠町」とあって、すでに名前が変わっていた。
 ※なの字館については、本連載の第193回(07年3月26日)を御覧ください。インターネットで見ることもできます。http://today.blogcoara.jp/natukashi/2007/03/index.html

No845 安藤さん描く 戦後の映画館

西部劇にしびれる
戦後まもないオリオン座 別府ロマン、第一ロマンへ

1207o2  前回から安藤允己さん(76)による、戦後の映画館の絵と思い出話を紹介している。
 流川通りから西法寺通りに入ってすぐの位置にあったのが、昭和23年暮れに開館した洋画専門の封切館オリオン座。昭和30年頃にロマン座、同34年頃に第一ロマンに変わったようだ。
 「オリオン座は昭和23年の暮れにできて、翌年正月が『荒野の決闘』だった。どこの映画館もそうだが、正月は超満員だった。私は中学三年生で、邪魔にならないようにステージの横に寝転んで、横目で見たがよく見えなかった。終わってすぐ友達とよい席のほうへ移って見た。その時から、ジョン・フォードはいいなあ、西部劇はロマンがあるなあと思った。マカロニウエスタンは理由もなく人を殺すが、ジョン・フォードが作った物は情緒がありました」。
1207o15  ほかに安藤さんの印象に残っている映画は「子鹿物語」「駅馬車」「風と共に去りぬ」「血と砂」「シェーン」「理由なき反抗」。「グレンミラー物語」は3回見て、さらに2、3年後に大分市の若草公園の所にあった若草映劇にも見に行ったほどだった。
 螺旋階段を上がって2階に事務所があった。映画館隣りの米屋旅館が立派だったことも記憶しているという。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※1949年版(昭和24年)『大分県商工銘鑑』によると「オリオン座/別府市本町三八九〇/アメリカ映画上映館/社長河野壮三郎/電一三六二番」。昭和32年11月現在では「別府ロマン/457/本町」(昭和32年版『別府市勢要覧』)、昭和34年は「第一ロマン/首藤克人/本町/1362」(1959年版『別府市商工名鑑』)と次々に名称が変わっている。なお、本町とは旧国道の流川通りから西法寺北側あたりまで。本町には西法寺向かい側にニコニコ館という映画館もあった。
 ※掲載した映画チラシでは別府ロマンチェーンとして、ほかに松竹ロマン、第三ロマン、銀座ロマンの名前があげられている。
  ◇  ◇  ◇  
 ※前回ナンバーワン劇場の話題に関連し、女性読者(74)から情報提供をいただいた。別府からは宝塚に別府由布子さん(芸名)、松竹歌劇団に柳千恵子さん(同)が入団しています、日舞の兄弟弟子でしたとのこと。

No844 安藤さん描く 戦後の映画館

タワー以前に映画館
ナンバーワン劇場 松竹歌劇団の実演も

1205o15  戦後別府市内に20数軒も映画館がひしめく時代があった。「娯楽の少ない時代、映画が一番の楽しみだった」という人も多いことだろう。安藤允己さん(76)=上原町、元南部地区公民館長=が記憶に残るたくさんの映画館の姿を、得意の筆で絵に再現した。映画のエピソードを交えて紹介する。
  ◇  ◇  ◇  
1205o2  掲載した絵は、現在の別府タワーの位置にあった昭和25年頃のナンバーワン劇場。同27年―30年頃はキャバレーになり、進駐軍の撤退に伴って姿を消した。跡地にできたのが別府タワー(昭和32年5月10日)。別府博(別府温泉観光産業大博覧会、3月20日―5月20日)に間に合わせるはずだったが、間に合わなかったという。
 周囲は別荘街で特に何もないような場所。入口も別荘街に向いていた。
 「記憶に残るのはジーン・シモンズの『青い珊瑚礁』、なんときれいな映画だったことか。ほかに『ハムレット』、『海賊バラクーダ』。実演もあり、松竹歌劇団が来た。知り合いの娘さんが入団し、見に来いというので見に行った。あとはキャバレーになりました」。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※ナンバーワン劇場には宝塚劇団も来たようだ。当時行合町の春日温泉の近くに住んでいた田口信代さん(73)=中須賀元町=は、高校生か中学生の頃、見に行った覚えがあり、「男装の麗人、春日野八千代が来ていました」という。映画上映の記憶はなく、「映画館は駅前通りのほうにいくつもありました」と話している。



No843 竹瓦界隈物語

修旅に同行し阿蘇までも吾妻屋旅館やめ昭和48年ビルに さんばし移り旅館街衰退

1204o2  旅館や商店経営など、別府で活躍した人物に愛媛県出身者は非常に多いが、今回掲載したのは戦前料亭なるみで開かれた県人会の写真。舛田泰義さん(82)の父照雄(後列右端)は役員をつとめ、中町にあった三瀬医院の三瀬宗造氏(前列中央)が会長だった。前列左端で強烈な面構えを見せているのは、のちに戦後初の横綱(第39代)になる同県出身の力士前田山で、この日はゲストとして招待されたようだ。
 掲載したもう1枚は鶴見園での記念撮影。左側の4人が宿泊客で、同行しているのは前回も登場した番頭の藤本さん(しゃがんでいる眼鏡の男性)と、隣りは女中さん(抱かれているのは舛田さんの妹で昭和9年生まれの秀美さん)。戦前の旅館はこういう家族的な雰囲気を持っていた。
  ◇  ◇  ◇  
1204o2_2  さて、吾妻屋旅館は照雄が昭和17年に47歳の若さで他界したため、妻ムメは宇和島の実家の弟(松本松太郎)を呼んで帳簿をつけてもらっていた。戦時中の企業整理で実家の造り酒屋は廃業となっていた。1、2年してムメの勧めで波止場神社西側で旅館太平館を始めた。照雄の兄弥三治も同様に勧められて旅館満寿屋を開いた。
 ムメが病気になり昭和25年に56歳で亡くなったため、舛田さんは勤めをやめて旅館経営に専念した。主に四国からの修学旅行や、広島航路もあったので広島のお客も多かった。旅館の旗を持って修学旅行について地獄巡りや阿蘇山まで上ったり、桟橋で見送る時には、アコーディオンの得意な友人(佐野俊夫さん)に「蛍の光」を演奏してもらったりもした。
 「(旅館の収容人員にあわせて)100人以下の小さな学校を営業した。学校が学校を呼んでくれた。ほとんどが四国だった。その頃は賑やかだった」。
 その後は旅館を妻にまかせ、昭和31年から63年まで32年間別府百貨連盟協同組合に勤め信販営業部長もした。
 ところで界隈の旅館と同様、昭和42年の桟橋移転でお客が減ったために、同48年にビルに建て替え貸店舗とした。隣の松屋別館あとにマンモスクラブ窓が開店(昭和45年)して賑やかになったことがきっかけとなった。
 旅館街の衰退について、舛田さんは「竹瓦地区は団体を泊めるような間取りが多かった。団体中心の旅行が家族中心に変わったことと、観光港に移ってから寂れた。港が致命傷になった」と話している。(この項終わり)
  ◇  ◇  ◇  
 ※昭和19年3月現在『別府市旅館名簿』には、北浜に「あづまや/一二二八/桝田ムメ」、「太平館/七四三/松本松太郎」、梅園町に「満寿屋/一〇四〇/桝田弥三治」が掲載されている。
―――――――――――
◎今回で「竹瓦界隈物語」はひとまず筆を置きます。次回から安藤允己さんに戦後の映画館を紹介していただきます。

No842 竹瓦界隈物語

大正12年に四国屋開く
昭和2年現在地で吾妻屋に 壮観だった連合艦隊寄港

1203o1  吾妻屋(あづまや)旅館の前身「四国屋」は、竹瓦温泉北西側に戦後あった旅館あさひの位置だった。
 今回掲載した古いセピア色の写真には、舛田泰義さん(82)の夭折した姉聡子さん(大正12年9月、2歳で死亡)が女中さんに抱かれて写っている。背後の戸のガラスは反射して見づらいものの、「四国屋」「内湯あり」と書かれているようだ。「四」の文字はほとんど読み取れないが、旧字体の「國」が何とか読み取れる。
1203o2  大正12年『豊後温泉地旅館名簿』には「大正十二年三月一日/北浜/四国屋/舛田照雄」とあり、四国屋開業は大正12年だった。
 ところが四国屋は狭かったためか、現在地に移り吾妻屋を開業したのは、昭和2年のことだったようだ(1949年版『大分県商工銘鑑』による)。吾妻屋は2階建てで、10部屋あった。
  ◇  ◇  ◇  
 掲載したもう1枚は、吾妻屋旅館でビールを飲んで笑顔の若い水兵たち。
 舛田さんによると、戦前は四国沖で演習をした連合艦隊が休養のため別府港にしばしば入港した。「高崎山のほうから戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、後ろに航空母艦と並び、壮観だった。“半舷上陸”といって乗組員が半分ずつ上陸して一泊した」。
1203o2_2  いかにも陽気そうな若者たちの様子が写っているが、舛田さん自身少年航空兵に志願した経験があるだけに、その後の水兵たちの行く末を考えてしまうという。
 なお写真には「旅館あづまや」と書かれた法被姿の番頭さんもいるが、「藤本さんといって、上手にお客の面倒を見てくれた」と話している。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※1949年版『大分県商工銘鑑』には「あづまや/別府北浜区竹瓦町/創昭和二年/経営者桝田ウメ/電話一二二八番/(級)五(収容)一六人/(浴)普通有/(交)駅より五分・桟橋三分」とある。
 ※吾妻屋の建物は明治43年の地図『豊後別府二条泉及乾液泉之図』で、松屋の西側に描かれている「友屋」だったと思われる。
 ※旅館名の由来は不明だが、舛田さんによると、群馬県と長崎県に吾妻町があり、「関係があるのではないか」という。電話番号「一二二八」は「いつもニコニコ笑う」と読んでいたそうだ。

No841 竹瓦界隈物語

働き者で苦労した両親
伊方・中之浜出身の吾妻屋

1202o0825  現在のヒットパレードクラブ西側にあるビルがかつての吾妻屋(あづまや)旅館。創業したのは愛媛県伊方の中之浜出身の舛田照雄とムメ(ウメとも)。長男の舛田泰義さん(82)によると、少し前に紹介した大浜屋の出身地大浜は隣り。
 もともと伊方は養蚕が盛んで、現在ミカン畑になっている所はみな桑畑だった。ところが、人絹の出現で養蚕は下火になった。舛田さんの両親は養蚕に見切りを付けて、一旗揚げたいと別府に来た。最初は別の場所で四国屋という小さな旅館を営み、その後現在地で吾妻屋を開いた。
  ◇  ◇  ◇  
1202o2  舛田さんが強調するのは、両親を含め当時の旅館経営者たちが「みな一生懸命働いた」ということ。資金に余裕があり、最初から旅館を買い取ったり建てたりする場合もあったが、借金をしてやっと開業した人は旅館を自分のものにしようと従業員の先頭に立って働いた。
 「兄弟の保証で農協からお金を借り、お袋の実家も宇和島で造り酒屋をしていたから、その両方から援助してもらった。旅館を買うのではなく、旅館の“権利”を買い、一生懸命働いて(旅館を)買い取った。それなりの覚悟を持っていたわけです」と舛田さんは言う。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※吾妻屋の姓は「桝田」で知られているが、本来は「舛田」。
 ※掲載した吾妻屋旅館の案内では旅館主の名前の部分を、舛田さんが修正を施しているが、父照雄は姓名判断に凝っていろいろな名前を使ったらしい。

No840 竹瓦界隈物語

“世界一の泉都”と自慢
清秀館宿泊客の絵葉書より

1201o15  前回取り上げた清秀館に昭和13年4月に宿泊した男性(52歳=なぜか、自ら年齢を記している)が、静岡県の自宅に差し出した絵葉書があるので紹介しよう。当時のゆったりした旅行の様子がうかがえる。
  ◇  ◇  ◇  
 「拝呈、十九日厳島発、午後一時下関着。関門海峡を連絡船にて渡り門司見物。小倉にて乗換え、午後六時半中津市一泊。二十日耶馬溪鉄道にて青の洞門、羅漢寺見物。電車中マイクを据付けた少年車掌(娘)の説明面白く、又元の中津に至り宇佐にて下車。八幡宮参拝、夕方別府着。」(注・読みやすいように句読点を補い、カタカナをひらがなに変えた)
 耶馬溪見物、宇佐八幡参拝をすませて別府入りをしている。
 「二十一日地獄巡り。少女車掌の説明よろしく、二時間にて地獄一巡し浮世立戻りをなす。二十二日鍾乳洞見物をなす予定。二十三日出発、山陰線にて出雲大社参拝、二十六七日頃帰宅の予定。(中略)別府市は人口六万四千、泉都として世界一と自慢しをります。」
1201o2  別府では少女車掌の七五調の解説を聞きながらの地獄巡りを楽しんでいる。鍾乳洞見物の予定とは、風連鍾乳洞のこと。別府に宿泊した人は耶馬溪、宇佐八幡、風連鍾乳洞に足を延ばすのが定番コースだった。現在なら、マイカーをとばして数時間のうちにすませてしまうだろうが、当時はそれぞれ1日がかりで巡っていて、全く隔世の感がある。
 なお最後に別府の人口が6万4千人で、「泉都として世界一と自慢しおります」と書いているが、当時の別府の勢いを感じさせる。(続く)

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