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No972 鉄輪物語

“仏に出会った”
温泉山永福寺蒸し湯で起きた奇跡

0531o15  温泉山永福寺の写真アルバムの中に、鉄輪の蒸し湯で起きた奇跡のような出来事にまつわる古い写真がある。
 掲載した2枚の写真はともに福岡県の人。林諫左ヱ門という人は蒸し湯に入っている時に、何か光る物があるので、手に取ってみると小石で、よくよく見ると仏様の姿に見えるので一生大事にして拝んだという。
 掲載写真で卓上に小さな石らしき物を収めたミニサイズの仏壇が2つ置かれているが、これが仏様の姿に見える小石だったのだろうか。(年代は記されていないが、写真全体の雰囲気から明治の終わりか大正初期ごろと想像される)
0531o2  なお昭和23年にその孫が同寺を参詣したという。
 もう1枚は角屋作太郎という人で、蒸し湯に入浴中に如来様を拝んだということで報恩読経にお参りに来た。昭和14年4月25日のことだった。(続く)



No971 鉄輪物語

油屋熊八らと計画か
温泉山永福寺一遍上人銅像「成就せず」

0529o15  温泉山永福寺には一遍上人銅像建設の趣旨書・芳名簿(「宗祖一遍大上人銅像建設趣旨書並ニ懇志者芳名簿」)が残されている。
 趣旨説明の文末に昭和3年とあり、この年に計画が始まったようだ。昭和3年というと、中外産業博覧会が当時の別府公園(現在のアリーナ周辺)で盛大に開かれたのをはじめ、別府市公会堂(現在の中央公民館)や浜脇高等温泉の建設、野口の大仏建立など多くの出来事があった記念すべき年。
 発起者は河野智円住職と3人の檀家総代(加藤稱司、加藤久太郎、原正六)、賛成人には朝日村長直江忍、鉄輪郵便局長佐原秀太郎、朝日村在郷軍人分会長加藤●(糸へんに丸)、別府市長平山茂八郎、石垣村長矢田保、亀川町長篠崎豊彦をはじめ錚々たる名士の名前が連なっている。
0529o2  さらに「顧問」になっているのが、「別府市亀の井ホテル 亀の井自動車社長」の油屋熊八。寄付者欄にも「一金二百円也 別府市亀の井ホテル社長 油屋熊八」と先頭を切って多額の寄付を表明していることからも、銅像建設計画への意欲は並々ならぬものだったのだろう。
 昭和3年は油屋が、少女車掌が七五調の案内をする地獄めぐりバスを走らせた年。鉄輪にもう一つ観光名所がほしいと、アイデアを出したのではないだろうか。
0529o15_2  芳名簿の最後に、銅像建立が成就しなかったとあり(「懇志者ノ方々ニ対シテハ申訳ナキ次第ナレドモ銅像建立成就セズ。乍然名簿ハ寺院ニ保存シ永久感謝ノ意ヲ表スルモノナリ…」)、一遍上人の銅像建立計画は幻に終わった。(続く)

No970 鉄輪物語

幻の一遍上人銅像
温泉山永福寺昭和7年に完成はしたが…

0528o3  昭和7年7月5日の新聞記事に「鉄輪に一遍上人の銅像/建立に奔走する永福寺住職」の見出しで、一遍上人銅像のことが書かれている。
 当時の河野智円住職が一遍上人の銅像建立のために奔走していたが、大阪市の彫刻家中島保美氏が10カ月かけて制作した高さ10尺(3メートル余り)の銅像が完成したという内容。ところが、不況のせいで資金が集まらず困っている(「之が基金について智円師が各方面に交渉してゐるが不況の為めに仲々思ふに任せず行き悩みの状態となって居り、有識者に惜しがられて居る」)というわけだ。
 掲載した永福寺所蔵の写真では、見上げるように大きな一遍上人像をはさみ、智円住職と中島氏が写っている。ついに完成したかと感慨深かったはずだが、実際には銅像建立は幻に終わってしまった。
 どういう結末となったのかは不明。銅像はできたものの、資金不足で受け取ることができず、別の寺が引き取ったのだろうか。あるいは写真を見る限り、鋳造する前の原型が完成しただけのようにも思われ、実際に銅像はできなかったのかもしれない。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※製作者のプロフィールについて永福寺の資料では次のように紹介されている(カタカナを平仮名に改め、句読点を補った)。
 「中島保美先生は大正十四年、日本政府の命に依りフランス、スイス二ケ国に遊学せられ、サロンに入賞さるる事数回で当時巴里に開催された万国美術工芸博覧会に選ばれ審査員を命ぜらる。同氏の作品は英国ヴィクトリヤ帝室博物館に収められて世界の技術と認められている。近くは大正天皇御大礼に大坂市より献上純銀鋳工の帆船を故市長池上四郎氏と共に同伴宮中に参内し献上された。亦今上陛下御大礼に大坂市より彫金大花瓶、同府より彫金大衝立、何れも先生の作品。並びに皇太后陛下の茶具等を畏多くも宮中に納められ実に名誉ある斯界の大家で帝展一方の重鎮である。現知事柴田善次郎氏より銀杯一組を下付され、現在は大坂東成区勝山通り八丁目に居を構えらる。以上。」

No969 鉄輪物語

お国のため供出の憂き目に
温泉山永福寺失われた鐘 昭和54年復活

0527o2  大正13年(1924)秋に設置された温泉山永福寺の梵鐘だが、わずか18年後の昭和17年(1942)12月に金属回収(金属供出)のためお国のためにと差し出すことになった。
 掲載写真に写っているのは河野智善住職と左は長泉寺の住職。背後に張られた紙に「梵鐘供出供養 昭和十七年十二月 温泉山主智善」と書かれている。鐘だけではなく、金属製の仏具なども一緒に供出したという。
0527o2_2  その後、長らくなかった鐘が復活したのは昭和54年12月27日のこと。市内小倉の梶原晋さんという人が個人で寄付してくれた。取り付け作業がこの日に行われ、翌28日は午前11時から法要(梵鐘鋳造撞初式慶讃法要)が盛大に営まれた。(続く)

No968 鉄輪物語

大正13年秋に梵鐘設置
温泉山永福寺亀川駅から寺まで信者の行列

0526o132  今回は温泉山永福寺の所蔵写真から、鐘にまつわる話を紹介したい。
 同寺に鐘が設置されたのは大正13年(1924)秋のことで、掲載した写真には「大正13年秋梵鐘鋳造亀川駅より行列にて運ぶ 鉄輪東区(旧下)大師温泉付近」と説明書きがある。鋳造した鐘が亀川駅に到着し、駅からは信者たちが行列を作って運んだ。写真をよく見ると、鐘を乗せた荷車は牛が引いているようで、荷車の上には当時の住職智円が立ち上がってカメラの方を向いている。信者たちは、その荷車につけた長い綱を手にして写真に収まっているようだ。
 いでゆ坂から少し下った所にある大師湯(2階が鉄輪東公民館)あたりは、写真同様に道路が大きくカーブしている。そのあたりの風景なのだろうが、住宅が建て込んでいる現在からは想像もできない。
0526o132_2  掲載したもう1枚には、「大正13年秋梵鐘落慶供養餅搗」とあり、鐘を取り付けたお祝いの餅つきを行っている風景。餅をつく男たちはみながっしりと筋肉がついた立派な体つきで、現在とは随分違う。お縁には景気づけの三味線弾きの人たちも見える。(続く)

No967 鉄輪物語

我欲のない人だった温泉山永福寺妻恒子さん語る先代住職

0524o2  温泉山永福寺の先代住職が病床で綴った「鉄輪小記」から、子供の頃の鉄輪の情緒ある思い出などを紹介してきたが、「我欲が全くない人でした」と人柄を語るのは妻河野恒子さん(89)。
 「忘れてきたお布施を届けてもらったが、お礼も言わなかった」というほど金銭に淡々としていた。
 毎朝本堂でお参りをして、次にむし湯でお参りするのが日課だった。趣味は“下手な”日曜大工で棚などを作ったが、寸法が合わなかったりした。晩酌をして、ひいきの巨人のナイター中継を見るのが楽しみだった。
  ◇  ◇  ◇  
 恒子さんは尾道の真言宗の寺、光明寺の生まれ。昭和18年にはるばる嫁いできたが、夫は2、3カ月もすると出征した。満州で終戦を迎えシベリア抑留の憂き目にあった夫が帰ってきたのは、昭和22年のことだったという。
 大正10年2月生まれで、現在数えの90歳だが、はつらつと話す様子は年齢を感じさせない。絵をかくことと読書が趣味。元気の秘訣は「言いたいことをしゃべっている」せいだろうかと話している。(続く)

No966 鉄輪物語

どこでも泳げた子供時代
永福寺先代住職の「鉄輪小記」より姿消す別府の海水浴場

0522o2  温泉山永福寺の先代、河野智善住職が病床で書きとめた「鉄輪小記」という冊子から、思い出話を紹介している。今回は昭和51年12月に記したもので、別府の海水浴場が姿を消すのを嘆いている。
  ◇  ◇  ◇  
別府の海岸
 別府市内に海水浴場が失くなった。来年には唯一つ餘って居る亀川の関の江の海水浴場も失くなるとの事、海岸が汚染されてきた為だ。私達が子供の頃、大正年間で朝日村の頃は海岸線一帯何処でも泳げた。
 距離的関係で六勝園や亀川の海岸に泳ぎに行く事が多かった。歩いて行き歩いて帰る為だ。六勝園の方は石が多く、気を付けぬと貝殻で足を切った。
 砂浜で良いのが餅ケ浜の海水浴場で賑やかだった。当時の別府市内では北浜の天然砂湯があった処で、海水浴をしながら砂を掘ると下の方が温かだった。
 又現在の別府タワーの有る所辺りで泳いで居る人も多かった。旧大阪商船会社の有った処から浜脇方面には距離的に歩いて行く関係上遠いので行った事もなく、場所も記憶にない。あの近所の者は泳いで居たと思うが、魚釣りの人達が居った様だ。
 今度亀川に天然砂湯温泉が復活されたそうで永続してくれると良いが、地理的な関係もあり心配だ。(続く)

No965 鉄輪物語

戦後は消えた子供の行事永福寺先代住職の「鉄輪小記」より藁で地面叩く亥の子やご縁ぶれ

0521o2  浄土真宗の開祖親鸞聖人の忌日に行う「報恩講」を子供たちが呼びかけて回る“御縁ぶれ”や、収穫を祝う民俗行事“亥の子”も戦前あったが、戦後はなくなってしまったと感慨を込めて書いている。
  ◇  ◇  ◇  
御縁ぶれ
 戦前(昭和二十年終戦前の事)あった行事で無くなったものは、御縁ぶれ(これは浄土真宗の報恩講の家庭行事)。真宗の門徒は秋の取入れ後、親鸞聖人の正当忌日の頃、大抵の家は報恩講を勤めて居た。愈々読経が始まる頃になると、子供連中が御縁ぶれに鉄輪の町を廻った。
 「御縁に参いちょくれ、お掛りなさったぞへ。お茶おけはお豆ぞへ。何々屋ぞへ。」と何回も声をそろへ大声でどなって廻った。屋号のある処は屋号、又は名字、お茶おけ(なまってお茶うけ)は其の家の出す品物を呼んで廻った。読経後、法話、終ってお茶が出て色々話しがはずんだ。親類や親しい人達にはお参りに行った人にお齊が出た。
  ◇  ◇  ◇  
亥のこ
 地方では今日も伝って居るが鉄輪にもあった。勿論、旧朝日村中何処でもやって居た。わらの束を縄でくくり、友達同志と一緒に家々を廻り文句をそろへ、縄たばで商売や家内繁昌をはやし言葉で云いながら打つ。そしてお金、紙、子供用の物等をお礼に貰らい皆んなで分けた。之も楽しい行事であった。取入れ行事の終った感謝祭の一つであった。
 現在の恵まれた品物の豊富な時代と違って、一般では子供の時代にはその当時には中々買ってもらへなかった。貧富の差も随分違って居たので面白くもあり、楽しみでもあった。(続く)
※広辞苑では「亥の子」について、「西日本で旧暦一〇月亥の日に行われている収穫祭。田の神が去っていく日と信じられ、子どもらが石に縄をつけ、或いは縄を固く固めた束で土を打って回る。」と解説している。

No964 鉄輪物語

幼い芸人や飛行機見物
永福寺先代住職の「鉄輪小記」より大正時代の素朴な思い出

0520132  河野智善住職は大正元年生まれなので、子供の頃の思い出というと大正時代のことになる。温泉の前で芸をして湯治客からいくばくかのおひねりをねだる子供がいたり、わざわざ亀川の海岸まで学校の引率で飛行機を見に行く話など、現代からはかけ離れたテーマだがどこか引きつけられるものがある。ともに、「昭和五十一年九月一日記す」と同じ日に書きとめている。
  ◇  ◇  ◇  
子供の芸
 小学校に行かぬ様な小さな子供を連れた芸人(親方とでも云うのだろう)が共同温泉の前の広場で三味線をひいて踊らせる。三回許りやった後、見物の湯治客にお金を貰う。小さな子供が一生懸命にお客さんに「はりこんで頂戴、お願いします、はりこんで頂戴」と頼む。そうすると心あるお客さんが、いくばくかの金をちり紙等に包み投げてくれる。温泉の廻りにある宿屋の二階からも投銭をくれる。俗に云う花と云うか、ひねり銭だ。
 少ない時は親方の目くばせを見て、もう少し張込んで頂戴、と大きな声で頼んで廻る姿は哀れである。子供の頃は面白く見たものだが、今頃思出すと情けなく哀れで、日々の暮らしもさぞ可哀想なものだった事だろう。勿論現在では児童福祉法違反で、あり得ない事であるが、おひねりを貰った後、又二三回踊って他の共同温泉場の方へ廻って行った。
  ◇  ◇  ◇  
飛行機見物
 大正十三年の初夏の頃だったと思う。暑い日だった。亀川の海岸で水上飛行機が飛ぶと云うので小学校から先生が引率して見物に行く。行って見ると一台海上に水上機が浮かんで居たが、中々飛行せず、あいてしまった。皆んなでワイワイ遊びながら、二、三時間位待った様な気がする。そしてやうやく飛ぶと云うので見て居ると、我々の見て居る上空を二三回飛廻って終りだった。今から考へると真にあっけないものだったが当時としては珍しい事だった。
 昭和 年(注・1文字分空白になっている)頃だったと思うが確信がない。別府海岸天然砂湯の突堤の辺りから遊覧飛行機が飛んで居た。之も別府の上空を二三回旋回して終り、料金はいくら位だったか知らないがあまり長く続かず止んでしまった。(続く)


No963 鉄輪物語

七夕の箱庭やホタル
永福寺先代住職の「鉄輪小記」より情緒あった戦前の風物

0519o2  温泉山永福寺の先代河野智善住職が病床で認めた「鉄輪小記」から、鉄輪の昔をしのぶ文章を紹介している。今回は子供の頃に経験した七夕の風習“箱庭”の思い出や、戦後すっかり変貌してしまったが、ホタル飛び交いカエルがやかましいほどに鳴いていたのどかな昔の田園情緒について書いた2編を掲載する。
  ◇  ◇  ◇  
七月七日の箱庭
 鉄輪は現在は一月おくれの盆である。勿論七月七日(一番始めは旧盆で其の後変って一月おくれとなる)其の日は墓ざらへ(墓掃除日)でそれぞれの墓組があり皆んな一緒に朝早くから寄って掃除をする。組によっては其の後墓供養の読経をしお参りをする。
 子供達は其の日は笹竹を取って来て七夕祭りやら箱庭を造ったりする。自分の家の泉水や庭を利用しそれぞれ一生懸命に工夫をこらし素焼の塔や家、人、其の他の物を買って来て造る。
 夜になるとローソクをともし明りを入れる。子供達は浴衣がけで何処の家のが良く出来て居るかとワイワイ騒ぎながら見て廻ったものだ。之を鉄輪言葉では「たんぼ」とか「いけ」とも云って居た。七夕様の楽しい一つの行事であったが現在は失なはれてしまい、情緒が無くなり残念な事だ。尚墓掃除も現在は自分の家の都合の良い日にして、一緒にやる事も少なくなった。
 露をとり願たくして短冊に
  ◇  ◇  ◇  
周囲変貌 昭和五十一年九月四日記
 昭和二十年終戦後あまり年月を経ない間に周囲はすっかり変ってしまった。裏の小川とまでいかないが、下水用の流れを距てた向うの田も失くなった。それまでは田植の季節は勇ましく田をかく馬を使う声がしたり、夜には蛙の合唱あり、夏はほたるが飛交う。小川には鰻や小魚も居た。川ぶちを時々鼬が走り抜ける。鼠の多いのには閉口した。家の中庭には小さな泉水であったが、水すまし、あめんぼう、源五郎、ヤゴ、何でも居た。夜蛙の合唱には眠れぬ位だった。それが今では皆んな居なくなった。
 裏の川は温泉の汚水で色が鼠色になったり、赤黒くなったり、嫌な何とも云へぬ臭気がただよい、水ではなく湯の川になってしまった。ボーリングの乱掘で温泉利用の便は良くなったが、自然の風物詩はすっかり失なわれた。
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載写真には「朝日郷出征軍人戦死者慰霊祭 鉄輪女子青年団生花供養 昭和13年10月16日」と説明書きがある。


No962 鉄輪物語

亀川駅から客馬車で
永福寺先代住職の「鉄輪小記」より交通事情の移り変わり

0518o2  いでゆ坂沿いにある温泉山永福寺。先代の河野智善住職は大正元年(1912)福岡県遠賀郡の生まれで、子供の時におじの智円住職に呼ばれ鉄輪に来た。昭和56年(1981)に亡くなったが、脊椎のガンの手術で下半身の感覚がなく、10年間寝ていた。その間に病床で昔の思い出などを書き留めたのが「鉄輪小記」で、貴重な歴史の記録となっている。この「鉄輪小記」から、今回は客馬車の話を紹介する。(句読点を増やすなど、読みやすいように改めています)
  ◇  ◇  ◇  
0518o2_2  客馬車の歴史は古いが、我々の子供の頃は入湯客が福岡県や別府以北の大分県方面より鉄輪に来られる人は、亀川駅よりの人が多い。鉄道が宇佐までしか無かった時は(注・亀川駅は明治44年開業)、柳ケ浦よりだった由。
 亀川駅より町を出はずれると、ごろごろ石の登坂でがたがたゆられて着く。その頃は貸間のお客さんが多く、農家の人は米、味噌、中には醤油や野菜まで持ってくる人も居た。
 バスが運行し出すと、客馬車は急激に衰へ、最後に二台のこっていた。それも人を乗せるのでなく荷物運搬として使用。一人は亀川の藤やん(藤やんと呼ばれて居たが、名前ではなくよく知った人の話しでは藤内と云ふので上の一字を取り、藤やんと呼んで居たそうだ)。もう一人は川田と云って居たが、病気で亡くなられた。
  ◇  ◇  ◇  
0518o1  乗合自動車は泉都バスと林田バスと二社あった。車が小さいので(現在のマイクロバス位だったと思う)鉄輪の狭い道でも何処でも通れるので、お客さんの帰られる時、バス会社に電話して頼んで置くと定期バスは旅館まで迎へに来てくれた。随分良くサービスをしてくれたものだ。
  ◇  ◇  ◇  
 戦争が段々苛烈になり、ガソリンの配給がなくなり、木炭バスとなる。別府の町より鉄輪に帰る時、観海寺入口辺りまで来ると、ぐーとスピードが落ち、人の多い時は動かなくなり、下りて貰って居た。時には下りて車の後押しをやり、鶴見地獄前までやっと着いた事もある。時には現在の明星学園の辺りで下りる事もあった。(続く)

No961 鉄輪物語

おやつはおこしだった
扇屋旅館の子孫思い出毎晩劇場に行き芝居見物

0515o15  扇屋旅館の子孫によると、戦後のことだが、子供はかまってもらえないので、毎晩劇場(鉄輪の大勝館のこと)に芝居を見に行って、帰ったら寝ていた。ただで入れたのは株主か何かだったのだろう。当時はおこしがおやつで、おこしが缶に入っていた。
 扇屋には地獄(地獄釜)もあった。地下が子供部屋になっていて、温泉が通っていたので冬は暖かかった。旅館と、山手側に貸間があり、渡り廊下で繋がっていた。貸間には米や野菜を持参で来る人がいた。
0515o15_2  母は信州生まれの竹子、父は安心院出身で中津などで働いていた清臣で、几帳面な人だった。鉄輪の人によると、瀧澤清臣は旅館組合の会計をしていた。また保険の仕事もしていたという。
  ◇  ◇  ◇  
 扇屋は戦後しばらくして旅館をやめたようだが、住宅地図を見ると、昭和29年版には「旅館扇屋」があるが、同じ場所が34年版では「山喜荘」に変わっている。その間の31年版ではなぜか「旅館山喜荘」と「扇屋」の両方が並んで記されている。
 付近の旅館や商店を、住宅地図の記載通りに海側から山手に向かって書いてみると、昭和29年は「貸間ミドリヤ→旅館扇屋→土谷鍼灸→パチンコオカベ」、31年は「貸間みどり屋→旅館山喜荘→扇屋→岩波菓子店→安波店」、同34年は「みどりや→山喜荘→大分銀行鉄輪出張所」となっている。
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○次回は同じく鉄輪の温泉山永福寺を取り上げます。

No960 鉄輪物語

いでゆ坂に昭和4年開業
今のヤングセンター向かいにあった扇屋昭和11年頃の旅館数27軒

0514o112  鉄輪の湯治場街を貫くいでゆ坂。ゆるやかに曲がった通りの風情が、道行く観光客の心を和ませている。その中ほどにある現在のヤングセンター向かい側に、かつて扇屋旅館があった。
  ◇  ◇  ◇  
 年度ごとの資料(「鉄輪温泉使用料徴収人員表」)に、前年まではなかった「瀧澤シゲ」(扇屋の経営者)の名前が登場するのが昭和4年度で、この年に開業したと思われる。信州の出身で、向こうでも同じ名前の旅館をしていたらしい。
 ちなみに資料に掲載されている旅館(17軒)のうち、扇屋(宿泊者)はこの年の合計が1022人だった。大型旅館では8581人、8265人といった数字も見受けられる。ちなみに同6年度は575人となぜか非常に減り、7年度はまた増えて1455人となっている。
  ◇  ◇  ◇  
0514o15  掲載した旅館の写真では、画面左側がいでゆ坂。通り沿いは塀で、塀の間から石段を上ると旅館があった。看板には「旅館扇屋 内湯完備 電話四九番」とある。現在のみどり屋旅館の玄関やその山手の中野屋駐車場あたりが、扇屋だったようだが、大きく変わっていて昔の面影はない。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
0514o2  ※昭和11年頃に鉄輪旅館組合が発行した観光案内、旅館案内のリーフレットには扇屋も含めて27軒の旅館名が掲載されている。
 「泉屋、錦屋、常盤屋(電長三〇番)、筑後屋本館(電四七番)、筑後屋新館(電五八番)、御座屋(電四五番)、大平屋(電長三番)、扇屋(電四九番)、温泉閣(電一四番)、温研アパート、上冨士屋(電二三番)、萬屋(電長四六番)、瀧本屋、大黒屋、辰己屋(電九番)、鶴屋(電七四番)、丸屋、萬力屋(電七二番)、丸見屋(電六八番)、冨士屋(電長二番)、冨士屋支店(電八番)、朝日屋(電五一番)、港屋(電三四番)、新屋(電七番)、平野屋(電二七番)、瓢箪旅館部(電二九番)、備後屋」。「等の旅館あり」と付け加えているので、この27軒ですべてだったわけではないということだろう。

No959 上田の湯物語

43歳の若さで帰らぬ人に
金沢大医学部教授の石川昇息子4人が医師として活躍

0513o1k  肺結核などの手術のほか、研究や後進の指導にと多忙を極めた金沢医科大学(現・金沢大医学部)教授の石川昇。昭和11年の暮れのこと、難しい手術を頼まれ弟子のために出かけた。講義のあと、大雪で汽車は動かないので、自動車のタイヤに縄を巻いて能登の先まで行き、何人かの手術をした。徹夜で戻りそのまま10人の手術をしたあと、教授室で倒れたという。結核性の肺炎のため、1カ月後の昭和12年1月28日に満43歳の若さで帰らぬ人となった。各新聞はその死を悼む記事を掲載し、盛大に葬儀が営まれた。
  ◇  ◇  ◇  
0513o2  5男2女をなしたが、そのうち何と男4人が医師となった。荘園の石川医院を開いていた次男学さん(89)は「兄弟4人が医者というのも珍しいのでは」という。
 東荘園で石川胃腸科医院を開いている5男晃さん(75)は、医師になることを「当然なるものと思っていました」。昭和9年の生まれで、2歳7カ月で父を失ったため全く記憶はないが、一方で11歳の時まで存命だった祖父喜十郎については、「いろんな人の面倒をよく見ていた」という印象を持っている。目をかけていた人物が捕まったため、留置場に差し入れに行くのに付いていった記憶がある。
0513o2_2  以前は近所の人を集めてマージャンを楽しんでいたらしいが、「私が小学生の頃は、座敷に一人でぽつんと座っていました」。祖父の顔が長いことから「イモじいさん、と叫んだら、“ひもじい”なら御飯をもらえと言い返されました」。蔵に閉じこめられたこともあるという。
 このほか、長男(雅啓、故人)が現在の石川家の位置で耳鼻咽喉科を開業していたし、3男(博夫)は佐伯市で眼科医として活躍している。
  ◇  ◇  ◇  
 ※喜十郎は別府町時代の町会議員を大正5年6月から4年間つとめた。
 ※昇の妻夏枝は平成10年に亡くなったが、103歳という長寿だった。
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○次回は現在の鉄輪のヤングセンターの近くにあった扇屋旅館のことを取り上げます。

No958 上田の湯物語

娘の婿に耶馬渓の神童
金沢大医学部教授で活躍した石川昇肺結核外科手術の草分け

0512o1k  土木事業で成功し莫大な金を持って別府に移り住んだ石川喜十郎。一人娘夏枝の婿、石川昇(1893―1937、金沢医科大学=現在の金沢大学医学部=教授)は肺結核の外科手術の草分けの1人として大きな功績を残した。
 父は医師の伊東祐哉。中津中学では“耶馬渓の神童”と呼ばれるほど優秀だった。中学4年から第五高等学校(熊本大学の前身)に進んだが、婿に医者を迎えたいと考えていた石川喜十郎は下宿に会いに行って人物を見込み、養子にしたという。
 九州大学医学部に進み、胆石の手術では日本一だった三宅速教授から腹部外科を学んだ。同大学助手となり、ドイツやイギリスに留学。ドイツでは胸部外科手術の勢会的権威、ザウエルハブルック教授に学んだ。
0512o2  大正14年(1925)から金沢医科大学教授として手術や研究、後進の指導にと活躍。日本外科学会では昭和4年の第30回総会で初の特別講演(「移動性内臓疾患の外科」)、翌5年の第31回総会では非常な名誉である“宿題報告”(「肺結核の外科」)を行った。翌6年から欧州各国へ出張しスペイン・マドリッドの国際外科学会でも宿題報告をしている。
  ◇  ◇  ◇  
0512o2_2  次男の石川学さん(89)によると、この欧州出張では、ドイツで娘のためにと有名ブランドのベヒシュタインというピアノを購入した。しかもすぐに持ち帰るのではなく、1カ月ほど慣らすためにピアニストに弾いてもらったという。
 フランスではオーバーコートも誂えた。「戦後私が父のオーバーを着て温研に通った。岡嶋坦さん(岡嶋医院)の句会で“パリ製の古オーバーを着て得意”という句を出したら、みなから川柳だと言われたが、岡嶋さんはホトトギスなら選ばれるだろうとほめてくれた」と思い出を語っている。(続く)

No957 上田の湯物語

土木事業で儲け別府へ
明治終わりに移り住んだ安心院出身の石川喜十郎

0511o15  別府市中央公民館の南隣りに別府では珍しい古い白壁の土蔵があり、石塀で囲まれた一画が石川家。道路拡幅前の10年ほど前までは、昔の家が残っていた。
 明治の終わり、この一帯がまだキツネが出てくるような寂しい場所だった頃に、安心院出身の石川喜十郎(1864―1945)が家を建てた。土木事業で成功を収め、莫大なお金を持って移り住んだようだ。
0511o15_2  『安心院町誌』(昭和45年)の人物伝には「明治三十年代に、当時日本最長の山梨県笹子トンネル南口を請負い、みごとにこれを完掘した。明治末には約四十万円の財を所持して別府市に居を構えている。」と書かれている。
  ◇  ◇  ◇  
 孫の医師石川学さん(89)=荘園町=によると、喜十郎は農家の次男。まだ学校のない頃で、寺子屋に通ったが、毎日顔に墨を塗って帰ってくるような調子で、いたずら好きの子供だったようだ。安心院で百姓をしていてもしようがないと、10代の頃に、いくらかの金を持って奥州へ行った。有馬組という土木会社に入り、よく働いて上の人から認められどんどん出世した。山梨県甲府市近くにある中央線の笹子トンネル(当時日本最長)は南北両側から掘ったが、南口を担当して難工事を完成させ、大きな金をもうけた。石碑もあったらしい。
 大勢の土工を引きつれ夜中も突貫工事をした。夜中も見回りをして居眠りをしたりさぼったりしていると怒鳴りつけたという。
 甲府市のほか、琵琶湖疎水の工事で京都に住んでいたこともあったようだ。日豊線の工事にも関わったらしい。大分県には、柳行李に札束を詰めて帰ってきたと伝えられている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載写真は現在のガレージの位置に建っていた家の玄関で。石川喜十郎(後左)・フサ夫婦と、一人娘の夏枝(右端)、夫で著名な外科医(当時の金沢医科大学、現在の金沢大学医学部教授)夫石川昇(中央)と子供たち。喜十郎の前に立っているのが学さん。

0511o2

No956 竹瓦界隈物語

休五郎が佐藤友吉を襲名
愛媛・宇都宮長三郎さんからの松屋情報すき焼きの残り火で火事に

0510o15  松屋旅館の2代目佐藤友吉(休五郎)の甥、宇都宮長三郎さんからの新情報をもとに改めて松屋旅館のことを紹介している。
 海岸通りに建った壮大な4階建て、松屋本館を定宿としていた人もいろいろといて、二宮斧七(宮之浦出身、山下汽船から独立して若松石炭を設立、若松商工会議所会頭をつとめた)、吉田磯吉(福岡県の大物政治家・実業家)といった人も泊まっていた。
0510o2  残念なことに火事で焼失した(昭和18年12月26日朝出火)ことは、すでに紹介した(09年10月23日付け810回)。前夜のすき焼きの残り火だったようだが、座蒲団に飛んだ火が分からずに積まれたのが原因だったという。
 ただ裏口の2階以下が焼け残り、昭和21年復員した二宮清(2代目友吉は姉の子の二宮清を昭和13年に呼び寄せて番頭としたが、応召して満州へ出征していた)が改造して旅館松風荘を作って、昭和35年まで経営した。
 2代目友吉は竹瓦温泉そばの松屋別館を本館として経営したが、松風荘廃業と同じ頃に松屋旅館も幕を閉じた。
 なお、初代佐藤友吉の死後、休五郎が襲名した時期については、以前の掲載時にも指摘したように昭和5年の別府市新年祝賀会出席者名簿、同6年発行の「温泉の別府案内」商工人名録にも休五郎の名前で登場しているので、それよりもあとのことと思われる。
  ◇  ◇  ◇  
 ※海岸通りの松屋別荘は、合資会社として松嶋屋旅館と改名・佐藤京三に渡した。
 ※休五郎の母、片岡ヨネは松屋別館で昭和8年に亡くなっている(享年69歳)。
 ※昭和15年、休五郎(2代目友吉)の長男知久は、杵築の料亭の娘藤原よしこと結婚しているが、テノール歌手藤原義江と兄妹のような仲で育った女性だった。
 ※昭和18年8月に宇都宮さんは夏休みの一カ月間を松屋で過ごした。
 ※昭和29年創業者夫人佐藤ミヨが死去。享年九十歳。いつもにこにこと誰にでも声をかける、太っ腹な人であったという。
―――――――――――
○あらためて貴重な情報を寄せていただいた愛媛県の宇都宮さんと、聞き取りをしていただいた岡崎直司さん、森吉徳さんに感謝します。
○次回からは「上田の湯物語」(08年11月掲載)の補遺として、別府市中央公民館南隣りにある石川家のことを紹介します。

No955 竹瓦界隈物語

4階に百畳敷き大広間
愛媛・宇都宮長三郎さんからの松屋情報周囲圧する海岸通りの偉観

0508o15  松屋旅館の2代目佐藤友吉(休五郎)の甥、宇都宮長三郎さん(愛媛県西予市明浜町)からの新情報で前回から、改めて松屋旅館のことを紹介しているが、壮大な4階建ての松屋本館が建てられたのは大正14年のことだったらしい。
 前回掲載した棟上げの写真(宇都宮さん所蔵)には筆書きの説明があり「別府市海岸通りに建築した松屋本館は木造四階建。四階には百畳敷大広間を配し五十畳広間あり。各室副間付。周囲の旅館を圧した、海岸通りの偉観であった。初代佐藤友吉氏は此の翌年物故した。」と周囲の旅館を圧倒するような建物だったことを強調している。なお初代佐藤友吉が翌年物故した、ということで大正15年ということになる。
0508o2  宇都宮さんによると(前回も紹介したように、愛媛県で熱心に町並み保存の活動を続けている岡崎直司さんによる聞き取り)、松屋本館は休五郎が采配を振るって建築したという。
 築山と岩石や樹木を配した中庭を囲んでロの字型に建っていて、中庭を見渡せるようにぐるりと廊下が巡らされていた。地下には家族風呂、大浴場、砂湯があった。大玄関の左手に応接室、右手に管理室があった。
 客室は窓を開けると国東半島や高崎山、眼下の海岸砂湯も見渡せ眺望がすばらしかった。4階には海岸通りに向かって百畳敷きの大広間、裏側に五十畳敷きの広間もあって各種の宴会に対応できた。
 初代佐藤友吉はこの旅館を松屋本館とし、休五郎を代表者に指名。竹瓦温泉そばの松屋を松屋別館として小坂正夫(友吉の甥で、千代=休五郎の妻=の弟)に任せ、海岸通りの松屋別荘はやはり甥の佐藤京三に任せた。(続く)

No954 竹瓦界隈物語

石灰運んだ佐藤友吉
愛媛・宇都宮長三郎さんからの新情報高山村の片岡ミヨを娶る

0507o15  昨年10月に竹瓦界隈物語の中で、松屋旅館の記事を6回(805回―810回)にわたって掲載したが、その後、関係者の宇都宮長三郎さん(愛媛県西予市明浜町)から新たな情報が得られた。同県在住で町並み保存に熱心に取り組んでいる岡崎直司さんと、たびたび来別しては路地裏散歩ガイドもつとめる別府ファンの森吉徳さんが訪問し、詳細な聞き取りデータが岡崎さんから届いた。宇都宮さん所蔵の写真も提供いただき、宇都宮さんはじめ岡崎さん、森さんに深く感謝いたします。
  ◇  ◇  ◇  
0507o25  松屋旅館は現在のヒットパレードクラブの位置に、佐志生(現在の臼杵市)出身の佐藤友吉が明治33年に開業した。その後、明治終わりには海岸沿いに進出(松屋別荘、のちの松嶋屋)。さらにその南側に壮大な4階建ての松屋本館を建てた。
 掲載したのはこの松屋本館の上棟式の写真。佐藤友吉と跡継ぎの佐藤休五郎(のち2代目佐藤友吉)が顔を揃えている。
 宇都宮さんはこの2代目佐藤友吉の妹の次男で、昭和3年生まれ。家業は石灰業で、元愛媛県石灰工業協同組合長、明浜町議も2期つとめ、現在は同県神社総代会会長などをしておられる。
  ◇  ◇  ◇  
 宇都宮さんによると、明治20年代、佐藤友吉は帆船で運送業をしており、たびたび愛媛県高山村へ来て、高山の石灰を九州へ運んでいた。明治30年頃に同村宮之浦の片岡久五郎次女ミヨ(慶応元年生まれ、昭和29年没)と結婚し、しばらく宮之浦に家を構えて別府・大分方面へ石灰を運んでいた。同32年に友吉・ミヨ夫婦は別府の将来性に着目して移住し、竹瓦温泉前に土地を得た。
 友吉は大正初め頃、姪の千代と休五郎=ミヨの甥、明治24年(1891)―昭和48年(1973)=を結婚させて後継者と定め、佐藤姓に入籍させたという。(続く)

No953 流川物語

賑やかだった各神社夏祭り
大正4年植木忠夫暑中休暇日誌よりなの字館で冒険家の講演も

0506o15  流川通りにあった旅館日出屋の5男で、杵築中学校の学生だった植木忠夫が帰省中に書いた大正4年の「暑中休暇日誌」には、当時の出来事や祭りのことも記されていて興味深い。一部を紹介する。
土用丑の日
7回半入浴
 「七月二十一日 水曜日 晴天 土用うしの日/土用うしの日であるから朝くし団子とちと神酒をねぶった。今日お湯に七回半浴すると一年中病気をしないといふ迷信がある。」
 本連載の楠温泉前で生まれ育った高橋絹子さん(明治44年生まれ)の昔話でも、「土用丑の日には楠温泉に7回半入浴するとよい」と言われていたそうで(第662回に掲載)、昔の別府の町にはそういう愉快な言い伝えがあったのだろう。
天神様のお上り
に提灯千本以上
0506o15_2  各神社の夏祭りの話題も連日のように登場している。
 7月23日の夜は大分から帰りの電車で「浜脇駅の付近では頻りに太鼓の音が聞えてゐる今日は秋葉神社の祭りである。」と浜脇秋葉神社の宵宮の賑わいが書かれているし、7月25日は「天神様のおのぼりが前を通るといふのでおがんだ。各町各町から数十本の提灯が出て太鼓と笛ではやし立てて又楽隊の列もあって実に実に賑やかであった。提灯の数は千本以上あった。」と野口天満神社のお上りの行列の様子が書かれているが、提灯千本以上とはすごい数だ。
 7月30日は「八幡神社の祭りといふので安さんと一しょに参拝した。松原のお宮から本社へ御還幸なさるので例の提灯行列は実に美麗であった。」と朝見神社の提灯行列の美しさを記している。
 さらに8月3日は住吉祭りの勇壮な海上渡御について、「今夜は別府名物の賑やかな住吉祭りなので(中略)海岸へ行った。十数隻の舟は皆旗提灯、笹等で美を競ふて躍ってゐた。数隻は人形の家をつくってコンコンチキリンをはやしてゐた。神輿のお上りは実に実に勇しいものであった。」と描写している。
 続けて「七夕祭りと住吉祭りとがいっしょになったのは今年が始めてである。」と書いてある。住吉神社の祭りは7月27日と決まっていたが、別府市誌によると昔は旧暦の6月27日前後の潮のよい日を選んでいたらしく、この大正4年8月3日は旧暦の6月23日に当たる。それにしても、七夕祭りと住吉祭りが同じ日になるのが初めてだったというのは、どういうことだったのだろうか。
冒険家の講演
を聞きに行く
 大正から昭和にかけて世界中を旅した冒険家菅野力夫という人物がいるが、その講演会が8月22日に楠温泉近くの寄席「なの字館」であったようだ。
 「夜は(中略)なの字館へ菅野力夫といふ人の四万哩、世界無銭冒険旅行談を聞きに行った。(中略)南洋方面から或は馬来連邦、馬来半島付近の冒険談が主として話された。今度第二回の大旅行をやられるそうで(中略)彼は旅行着服の儘に面白く話された。」
―――――――――――
○次回は「竹瓦温泉界隈物語」で紹介した松屋旅館の2代目佐藤友吉について、出身の愛媛県からの新情報をお伝えします。

No952 流川物語

富山の自然愛した忠夫
旅館日出屋の子供たち男兄弟4人とも県外で活躍

0501o2  植木忠夫は明治22年(1899)生まれで、平成2年(1990)に91歳で亡くなった。北小、杵築中を経て北海道大学で林学を学び、広島県立広島一中と母校杵築中でそれぞれ2年ずつ教鞭を執ったあと、再び大学(東北大学理学部)で動物学を学び、昭和40年3月に定年退官するまで旧制富山高校、富山大学に勤めた(同大学名誉教授)。
 同41年に世界で初めてライチョウの人工ふ化に成功したり、立山連峰の総合調査の団長をつとめるなど活躍。昭和3年初めて富山の駅に降り立った時、壮大な立山連峰の美しさに魅せられ、さっそく別府から戸籍を移したほどで、一貫して富山の自然を愛し続けた。退官記念の著書『太刀の高嶺を仰ぎつつ』(昭和41年)をひもとくと、大勢の教え子や同僚らに慕われ、研究者・教育者として幸せな人生を送ったことが伝わってくる。
 4女豊田登思さん(73)=富山市=によると、学生たちの面倒見がとてもよく、食糧難で家族がお粥を啜っているような時でも、自宅に連れてきて米の御飯を振る舞ったりしたという。
  ◇  ◇  ◇  
0501o2_2  忠夫自身が著書に書いているように生い立ちは「明治三十二年(一八九九)十一月九日に、別府町長植木岸太郎の五男(八人きょうだいの七ばん目、母は植木クリ)として、流川通り二丁目の家で生れた。」(注・二丁目は、三丁目の勘違いと思われる)。兄弟8人のうち、男子は早く亡くなった2人のほかに3男茂はじめ4人いて、県外に出てそれぞれ活躍した。母クリは昭和14年に亡くなっている。
 家族や従兄弟について「大正13年(1924)3月29日に4歳年下の児玉ヨシ子と結婚。昭和3年(1928)11月21日に長女翠が生まれた。次女陽、三女栄、四女登思。従兄弟が黒崎安太郎(現在は西鉄高速運輸社長)」と記している。
  ◇  ◇  ◇  
 ※豊田登思さん、福岡市の植木陽一郎さん(76)=茂の息子=はじめ、植木家のみなさまに深く感謝いたします。
 ※植木岸太郎町長や旅館日出屋については今回で終わりますが、忠夫の日記に記された当時の風俗や出来事についての興味深い話題を次回掲載します。

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