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No997 鉄輪物語

しこ名は“常盤崎”
ときわや加藤新六いでゆ坂沿いに弟子らが墓碑

0629o2  老舗旅館ときわや(常盤屋)加藤新平のあとを継いだのは長男新六=大正10年(1921)10月4日没、享年83歳=。
 いでゆ坂沿いの共同温泉「地獄原温泉」とたまの荘の間に「常盤崎加藤新六墓」という墓碑が建っている。「時津風内九州頭取」、「明治二十六年三月穀旦 諸弟子共立焉」という文字も刻まれていて、さらに土台部分には弟子たちなのだろうか、たくさんの人名が並んでいる。
 新六は体が大きく相撲好きで、しこ名が常盤崎だった。時津風というのは、戦前69連勝したことで知られる宇佐出身の双葉山が引退後に襲名したが、もともとは大阪相撲の名跡だった。
 頭取という言葉は文字通り「長たる者」で、辞書によると「相撲取りの取り締まりをする人」という意味がある。おそらく大勢の弟子を育て、村相撲を開いたりしていたのだろう。
 明治26年3月吉日に弟子たちが共同で建立したと記されている。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※墓碑建立の明治26年には新六はまだ50代で健在だったが、「墓」とはどういうことだったのだろうか。
 ※加藤家の血筋は体格がよく、現在の10代目当主義矩さん(65)も180センチの長身。

No996 鉄輪物語

私財投じ鉄輪道を整備
ときわや加藤新平“大石”の傍らに頌徳碑

0629o15  いでゆ坂沿いの現在ヤングセンター駐車場になっている場所が、鉄輪を代表する老舗旅館の一つ「ときわや」(常盤屋)の跡。
 ときわやの加藤家中興5代目が新平=文化12年(1815)―明治23年(1890)=。公共事業に尽くした人物として頌徳碑が建立されている。俳句の号が秋波、画名は鼎山で趣味の多い人物でもあったようだ。
  ◇  ◇  ◇  
 鉄輪から別府大学方面へと下る道路から、右に分かれ中須賀公民館方面へと向かう道が「鉄輪道(かんなわみち)」と呼ばれる古い道。
0629o2  分岐点からまもなく通り沿いに巨大な「大石」があり、傍らに「加藤新平翁頌徳碑」が建っている。
 「別府市誌」(昭和60年版)の説明によると、ここは江戸時代の南鉄輪村、平田村、北石垣村の村境だった。頌徳碑は新平翁が亡くなって27年後の大正6年3月に北須賀組の人たちが建てたもので、碑文によると、石垣村北須賀から鉄輪に通じる道路が荒廃して人馬の交通に苦しんでいたのを嘆き、道路開さくを企てて私財を投じた。おかげで北須賀―鉄輪間の交通が大いに短縮されたことを、「翁の賜なり」と深く感謝している。
  ◇  ◇  ◇  
0629o15_2  少し前に掲載した明治21年の案内書「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」の出版も新平翁が提唱した。
 本の題字では翁の略歴を紹介し、幼い頃は貧しかったが努力して家を隆盛に導いた。一方で、暇ができてからは読書し、俳句や生け花、絵を学ぶ趣味人でもあった。温泉事業にも尽くし、戸長もつとめたと記している。(続く)

No995 鉄輪物語

昔の鉄輪は半農半商
筑後屋新館は昭和4年9月落成か

0626o1k  原寛孝さんは昔の鉄輪について、「じいさん(原蘇七)の時代は半農半商」と説明する。大正期までは宿屋業といっても半分は畑や田を耕していたというわけだ。
 また従業員も「近所の農家の娘さんが行儀見習いを兼ねて働いていた。だから給料もなかった」。
 ところで、筑後屋の屋号の由来は、「筑前屋と土地を交換したらしい。筑前屋が先に商売をしていたので、その後から旅館を始めたという意味で筑後屋と名づけたと聞いている」。それ以上のことはわからないという。
  ◇  ◇  ◇  
0626o25  ※宿ごとに毎月の宿泊者数を記した統計資料(「鉄輪温泉使用料金徴収人員各月宿屋別表」)には、昭和4年9月から新館の宿泊者数が掲載されており、これが筑後屋新館の落成時期だったと考えられる。
 6年分が存在するこの資料によると、筑後屋の宿泊者(昭和4年以降は新館を合計した数)の推移は大正2年6704人、同12年1万3411人、昭和3年1万644人、同4年9508人、同6年7515人、同7年7581人となっていて、意外なことに大正12年が宿泊者数のピークだった。
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載した原蘇七・初枝夫婦(2列目右端と左端)を囲んだ家族写真の人物は、後列左から孝(五男)、敬三(三男)、誠治(長男)、文子(誠治妻)、カスミ(良三妻)、良三(次男)、務(四男)。誠治の前が緑老(ろくろう、六男)。原寛孝さんと妹曽枝子さんは最前列。
 ※大正12年「豊後温泉地旅館名簿」には開業年が明治34年7月11日、電話番号が47番、経営者名が原蘇七と記されている。

No994 鉄輪物語

仕事は呑んでかかれ
筑後屋独特な格言吐いた原蘇七

0625o15  大正時代に筑後屋旅館を4階建てに増築し、さらに昭和初期に筑後屋新館を新築、また筑後屋の別荘も建てた原蘇七。
 筑後屋本館を継いだ長男誠治の長男で、おととし9月まで旅館三晃を経営していた原寛孝さん(80)によると、早起きの働き者で、学問はしていなかったが、独特な教訓を吐くような人物だったという。
0625o25  「小学校5、6年頃にじいさん(蘇七のこと)に田植えに連れて行かれた。『田んぼを見ろ。よだきかろう。何でも仕事をする時に仕事に呑まれるな。呑んでかかれ。一畝一畝やっていけばいつか終わる』とそういう話をしてさぼれないようにしておいて、終わったら全員の前で熱心だとほめてくれました。ほかに『お前たちは工面(工夫のこと)が足りない。人間は思い立ってできないことはない』とも言っていました」
 酒はよく飲み、人にも飲ませた。天神様の総代などはしたが、議員といった朝日村の役職はしなかった。
 原さんは「畑仕事をよく手伝わされました。一方、ばあさん(初枝)はたくわんを浸けたり、味噌を作ったり。大豆を煮てつぶすが、ミンチにする係が私で、独特の臭いには辟易しました」と思い出を語っている。
  ◇  ◇  ◇  
 ところで、旅館三晃の土地は、農協の前身の朝日産業組合(もっと前は朝日信用購買生産販売組合)が事務所がないというので蘇七が寄付したものだったが、昭和29年に買い戻し、翌30年に旅館を建てた。その敷地は今年3月にオープンした別府市の地獄蒸し工房鉄輪に生まれ変わっている。(続く)

No993 鉄輪物語

ユニークな4階建て旅館筑後屋昭和初期に新館 別荘も

0624o2  鉄輪の古い旅館の一つが筑後屋。新しいむし湯の西側、旅館上冨士屋の駐車場になっている所が筑後屋本館があった場所。唐破風の風格ある玄関を持つ木造3階建て旅館だったが、戦前は4階建てのユニークな建築物だった。
  ◇  ◇  ◇  
0624o25  もともと2階建てだった旅館を大正時代に4階建てにしたのが原蘇七(昭和18年11月5日没、69歳)。
 かつて筑後屋には子供がなかったため、萬屋(よろずや)旅館から養子に来た蘇七と、新屋旅館の長女初枝(ハツヱ)が取り子取り嫁で後を継いだ。その時、筑後屋には大平屋出身の養母がいた。
 4階部分には8畳の客間が2部屋あったが、さぞかし眺めがよかったことだろうと思われる。ただし、無理矢理に建て増しために、台風の時にはギーコギーコときしんでいたという。危険だということで戦後になって4階部分は取り壊した。その後、全体を取り壊したのは昭和59年か60年頃のことという。
 蘇七は初期にはいでゆ坂ぞいに3階建ての筑後屋新館(現在の筑新)も新築した。ほかに大黒屋の裏手に筑後屋別荘も建てた。筑後屋本館は蘇七の長男誠治が継ぎ、次男良三が筑後屋新館を継いだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載した明治43年「新撰南豊温泉記」の広告には「豊後鉄輪温泉場/入湯御宿/筑後屋旅館/一、当館は、土地高燥にして、四方の眺望絶景、空気流通、又佳良なり。/二、当館は、温泉場中央の位置にして、他に比類なき、蒸湯の前にあり。/三、庭内に、本泉同質、特効の内湯、並に温炉室等の設備あり、避暑避寒共に適す。/四、旅客に対し、最も懇切丁寧、且つ安価廉格を旨とするは、当館の特色なり。」と記されている。眺望の良さに加えて空気流通がよく衛生的であること、人気のある蒸し湯のすぐ近くにあるという立地のよさ、内湯やオンドルの設備、安価な料金などを特徴としてPRしている。
 ※掲載した大正時代の絵葉書は、以前のむし湯側から撮影したもの。唐破風の玄関も見える。
 ※蘇七の「蘇」は、本当は「魚」と「のぎへん」の位置が逆。

No992 鉄輪物語

湯治客慰める眺望のよさ明治21年の解説書より七ツ瀑ははやり目・頭痛に

0623o2  明治21年の案内書「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」(国立国会図書館近代デジタルライブリーより)をひもとき、できるだけ古い時代の鉄輪の温泉のことを知ろうとしているが、「七ツ瀑(ナナツタキ)」の効能は次の通り。
  ◇  ◇  ◇  
 「伝称ノ効能」は「ハヤリ目、ノボセ目、頭痛、眩暈、肩腰ノ痛ミヲ治ス 但シ頭痛眩暈ノ病人ハ最初ヨリ直ニ上部ヲ搏撃スルハ宜シカラス 先ツ全部ヨリ始メ漸々上部ニ及ヒ終リニ頭上ニ至ルヲ宜トス」とある。頭痛やめまいの病人は、最初から頭から浴びるのではなく、全身に浴びて少しずつ上部に移り、最後に頭に浴びるのがよいと注意を促している。
  ◇  ◇  ◇  
 案内書にはほかに「鉄輪村地勢概略」の一文もあり、天気の良い時には船の往来が見えたりして海の眺めがよく“入浴患者”の気持ちを慰めてくれるといったことが書かれている。
 さらに「鉄輪名勝」として、「タウチの地獄」「海地獄」「鬼地獄」「紺屋ノ地獄」「坊主地獄」「血ノ池地獄」の6ケ所が挙げられ、ほかに温泉社、菅公社、歳神社、稲荷社、温泉山、西派真宗掛所、鶴輪学校の名前も記されている。
 「鉄輪物産」としては青筵、苧麻、生姜、芽生姜、大唐米、櫨実、芽赤芋、竹細工、白土、湯ノ花が挙げられている。
  ◇  ◇  ◇  
 なおこの案内書の出版日は明治21年12月8日で、編集・発行・印刷人は大阪の川崎幾三郎となっている。その他専売所として地元の名士の名前が列ねられており、「豊後国速見郡鉄輪村 安波利一 加藤新六 原雄三郎 平川角太郎 佐原数太郎 佐原亀太郎 加藤浦太郎 原平八 安波謙吉 安波七蔵 大野嘉六 松尾一真」となっている。

No991 鉄輪物語

熱の湯は垢と汗取り爽快
明治21年の解説書より胃弱は渋の湯の飲用不可

0622o2_2  明治21年の案内書「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」(国立国会図書館近代デジタルライブリーより)を読み進めているが、渋の湯、熱の湯の効用は次のように書かれている。
  ◇  ◇  ◇  
 渋の湯の「伝称ノ効能」は「軽症梅毒、痛風、瘰癧、筋肉ノ痛、帯下症、疥癬及ヒ遺毒ヲ発表シ浴スルニ随テ漸々治癒ス本泉ハ溜飲胃痛総テ脾胃ノ弱キ人ハ服用スヘカラス」とあって読みづらいが、軽症梅毒や痛風をはじめいろいろな効能があり、入浴を続けることで徐々に効き目があり、また、脾臓や胃の弱い人は飲むなということらしい。
 「医治効用」も合わせて掲載しており、そちらには「神経機能ノ亢進、神経麻痺、婦人生殖器ノ慢性諸病、貧血、重病後ノ快復期、腺病、膀胱及腎臓慢性炎、疝痛、頑癬等ニ適応ス」と神経機能や婦人の生殖器の諸病などに効果があるというわけで、昔からの言い伝えと医者の見方は違いがあるようだ。
  ◇  ◇  
 熱の湯のほうは「伝称ノ効能」について、「蒸窖ヨリ出テ七ツ瀑(タキ)ニ浴シ然ル後渋ノ湯熱ノ湯ニ浴スレハ本泉ハ至テ澄明清潔ニシテ身体ノ垢汗ヲ去リ体気頗ル爽快ナルヲ覚フ」と記していて、蒸し湯→七つ瀑→渋の湯に続いて入浴すれば、透明清潔な泉質で体の垢と汗を取り去り、非常に爽快な気分になるというわけだ。
 一方、「医治効用」では、「慢性筋及関節僂麻質私、痛風、炎症後ノ滲出物、神経機能ノ亢進、神経麻痺、婦人生殖器ノ慢性諸病、貧血、重病後ノ恢復期、腺病、膀胱及腎臓慢性炎、疝痛、頑癬等ニ適応ス」とリウマチや痛風などへの効果が掲げられている。(続く)

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No990 鉄輪物語

兎狩湯と呼ばれた熱の湯
明治21年の解説書より天候で色の変わる渋の湯

0621o2  国立国会図書館の近代デジタルライブリーで公開されている、明治21年「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」という案内書から、湯治の鉄輪のむし湯などの様子を探っている。渋の湯や熱の湯についても、興味深いことが記されている。
  ◇  ◇  ◇  
 「渋ノ湯ハ寒暖晴雨ニ因テ其湯色ヲ変ス亦奇ト謂ヘシ 熱ノ湯ハ身熱ヲ除去スルノ謂ナリ 古之ヲ兎狩湯ト称ス中古以来熱ノ湯ト改称ス」
 渋の湯は気温や天候によってその湯の色が変化する不思議な温泉。熱の湯は身熱を取り除くという意味で、古くは「兎狩湯(うかりゆ)」と称していたが、中古の時代から熱の湯と改称した。
 ちなみに昔の渋の湯は現在とは向かい合わせ(少し前まであった「元湯」の位置)にあった。
  ◇  ◇  ◇  
 「七瀑及諸泉亦皆上人ノ造築ニ係ル 瀑側ニ上人ノ袈裟掛衣掛二石今ニ至テ尚存ス 本村モト鹿直村ト称ス 上人温泉造築ノ時ヨリ今名ニ改ルト云」
 七瀑と各温泉はみな一遍上人が築いたもので、滝のそばに上人の「袈裟掛石」「衣掛石」の2つの石が今でもある。
 もともと「鹿直村」と称していたが、一遍上人が温泉を築いた時から今の名前に改めたという。
  ◇  ◇  ◇  
 また、むし湯の効能は次の通り。
 「蒸窖古来伝称ノ経験効能/一 疝癪筋肉ノ痛ム病/一 手足屈ミタル病/一 身体中潜伏ノ悪熱ヲ発散ス/一 痰気喘息ノ病ハ窖中痰焼ノ箇所ニ就テ蒸混スレハ必ス全治ス/一 瘧症癲癇発●(手辺に畜)ノ病/一 手足麻痺ノ病」(続く)


No989 鉄輪物語

四湯をフルコースで入浴
明治21年の解説書よりむし湯→七瀑→渋の湯→熱の湯

0619o25  明治21年の「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」(国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開)という古い案内書から、昔のむし湯について紹介しているが、120年近く前は独特な入浴のしきたりがあったようだ。
  ◇  ◇  ◇  
 「窖ノ中央ニ一大石柱ヲ建テ柱ノ周囲ニ枕石十六箇ヲ置キ以テ十六人ヲ臥シムヘシ十六処所在ニ随テ各其名称ヲ異ニス(中略)凡ソ窖口ヨリ入リ石柱ヲ繞リテ輪次右旋シ終テ窖ヲ出ルヲ以テ一周トス一人一処ニ臥コト凡ソ一「ミニュート」弱トス」
 むし湯の石室の中央に大きな石の柱があって、その周囲に16の枕石があり、定員は16人だった。それぞれの位置に名前が付けてあり、1分弱程度で右回りに移っていくというやり方だった。
 「一周ノ後窖ヲ出テ直チニ所謂七瀑ニ至リテ其患部ヲ搏撃シ終リテ渋ノ湯ニ浴シ然ル後又熱ノ湯ニ浴スルヲ以テ順序トス」
 むし湯の中で右回りに一周してしっかり汗をかいたあとは、「七瀑」(七筋の滝の意味か)で患部の打たせ湯を行い、さらに渋の湯、熱の湯と入浴するのが順序というのだから、現在とはかなり違った入浴作法があったのだろう。(続く)

No988 鉄輪物語

蒸気の“あなぐら”
明治21年の解説書より他村もまねをするけれど…

0618o2  鉄輪の温泉施設では何と言っても、一遍上人が築いたとされるむし湯が有名だった。その古い解説書をひもといてみよう。
 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されているのが、明治21年の「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」という案内書。両温泉とは渋の湯と熱の湯だが、「蒸窖」(じょうこう)という見慣れない文字がある。「窖」は「あなぐら」で、むし湯のことを「蒸気のあなぐら」と言っているわけだ。全文が漢文調で記述されているが、ぼちぼち眺めていこう。
  ◇  ◇  ◇  
 「本村温泉及ヒ蒸窖ノ諸病ニ奇効ヲ奏スルハ世人ノ普ク知所ニシテ我豊後国速見郡温泉ノ多キ古ヨリ蒸窖ノ設ケアルモノハ独本村アルノミ他ノ温泉モ亦往々本村ニ象トリ蒸窖ヲ造築スルモ一モ其ノ性効本村ニ髣髴スル能ハサルヲ以テ今皆廃棄ニ属シタリ」
 つまり、鉄輪村の温泉と“蒸窖”は各種病気に特効があると世間に広く知られる。“蒸窖”の設備があるのは鉄輪村だけだ。他の温泉もまねをして作ったが、その効き目は及ばず、いまはほったらかしにされている。(続く)

No987 鉄輪物語

春木川上流の内山渓谷
昭和12年の『大別府案内』より伽藍岳・塚原温泉へハイク

0617o2  戦前のガイドブック「大別府案内」(昭和12年)で紹介されている、鉄輪からの散策コースの続きを見てみよう。
  ◇  ◇  ◇  
 まずは明礬から。
 ――明礬温泉場には有名な温泉の素、湯の花の採取場が沢山ある。これは是非一見す可きである。山の好きな人なれば、ここより奥約一哩にして内山渓谷のキャンプ場に至り、扇山の頂上を数十分にして極めるのも快哉であり、鍋山を登りて伽藍岳を極むれば天下の絶勝は実にここに尽されたるを見るのである。ここに到れば塚原温泉までは僅か数町、塚原地獄に至って別府礦水の採取場を見るのも一興である。――
 ――明礬温泉より北東の湯山に登って臥牛の腹を下る様なダラダラ坂を北鉄輪に下るコースは、これ又絶大の讃辞を投げて尚ほ且つ足らぬをおぼゆる大風光の岡続なる事を諸士よ必ず実験せられよ、必ず必ずの四字をここに添へる。諸士は生涯中の一大発見をするであらう――
  ◇  ◇  ◇  
 ※春木川上流の内山渓谷は昭和5年に選定された「別府八景並びに三勝」で、三勝(志高湖、内山渓谷、仏崎遊園)に選ばれている。
 ※戦後も夏にはキャンプ村が開かれていた。


No986 鉄輪物語

執筆者はアウトドア趣味!?
昭和12年の『大別府案内』より温研や明礬の散策も提案

0616o25  戦前のガイドブック「大別府案内」(昭和12年)の鉄輪の項をひもといてみているが、執筆者は大のアウトドア好きだったのか、あるいはこの時代はそういう野外趣味が流行していたのか、鉄輪からの散策コースがいろいろと紹介されていて興味深い。
  ◇  ◇  ◇  
 まずは九州大学の温泉治療学研究所について。
 ――温泉湯治の方法を徹底的に学ばんとなればここ(注・鉄輪のこと)より西南数町の九大温泉治療学研究所に赴いて一応診察指導を受けるなり入院するなりするがよい。(中略)地はこの大別府温泉地帯の東海岸に面するゆるやかなスロープの松林の中央、最も健康地帯の中心に位し、景は大湾と大山とを前後にして只この庭を踏む丈でも凡そ病気などなくなりさうな絶勝の地である。(中略)温研下の別府荘園から南山荘、実相寺山にかけては諸君に取ってこよなき散策の好適地である。このあたりは別荘地帯として又諸事業の計画地帯として現在のところでは選取り見取りと言った形である故、諸君の半日のハイキングに充分価値あることを伝へたい。――
 このほか、お勧めの場所としてあげているのが、吉弘神社や鬼の岩屋、さらに地獄地帯のこと。
 ――鉄輪温泉場を中心に歩して五分から十五分位の地点に見る可き処が相当多い、先づ明礬温泉道路に沿ふて、鉄輪地獄は諸君の旅館の中央にある。登りて左に白池地獄、右に鬼山地獄、上手に海地獄、鬼石地獄、かくして最も上手に本坊主地獄遊園地がある、この遊園地に道を距てて火山の神様で県社の火男火売神社があり――
 さらにここから明礬の紹介も続いている。(続く)

No985 鉄輪物語

牛馬家畜も湯治生活
昭和12年の『大別府案内』より一日でも足りぬ瓢箪温泉

0615o2  前回から戦前のガイドブック「大別府案内」(昭和12年)で、鉄輪がどんな風に紹介されているのか、のぞいてみている。
  ◇  ◇  ◇  
 ――ここの湯治生活は蒸湯を中心とするが、芯から暖まる筋湯渋湯 美しい温泉量の多い熱の湯、胃腸に特効の谷の湯、原の湯の下手には牛馬の入浴する温泉もある、さすがに泉量豊富な土地だ、牛馬家畜も湯治生活が出来るとは何んと幸福な処ではある。湯治の成績見る可きものあるに到れば、歩して瓢箪の娯楽温泉に出かけるのもよからう。渓流に懸る橋を越えて地下にトンネルあり、其中に電灯あり、壁の左右に処々に神仏の像を祭り様々の形に作った洞窟の中に温泉が湧いて入浴場がある、見物するだけの価値でも充分、況んや自らタオルを肩に、あの壺、この室、この瀧あの池と凡てこれ温泉ならざるなきに遊べば一日半日を費して尚ほ足らないであらう、瓢箪形建築の展望台に午餐を運ばせることも出来る、実にここの趣向は、見るに足り、遊ぶに足り、学ぶに足るものがある。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
0615o15  ※掲載した2枚の写真の解説文はそれぞれ「鉄輪温泉場の展望」、「瓢箪温泉瓢箪閣六階建高さ七十余尺(注・70尺は21㍍余り)」とある。

No984 鉄輪物語

調理や餅つきにも昭和12年の『大別府案内』より戦前の地獄釜の風景

0614o120315  戦前のガイドブックでは鉄輪はどんな風に紹介されているのか、ちょっとのぞいてみたい。朝日村などが別府市と合併したあとの昭和12年に発行された「大別府案内」という本の、鉄輪温泉のページをめくってみよう。
  ◇  ◇  ◇  
 ――鉄輪温泉場は、正に山手地獄地帯の中心にある。それもその筈、この温泉場其物が八丁四面の大地獄で、焼け野ケ原であったのを、石垣海岸、今の聖人ケ浜に上陸された一遍上人が此処まで登って来られて、法華経を唱へ乍ら、一字一石の心血を注いで地獄を埋立て先づ蒸湯を開かれ、ついで寺院を建立された由緒ある温泉場であるのだ。それ故、現在の旅館の地下は地獄であり、床の下から湯気が吹き、オンドル式な暖い部屋があり、台所には地獄のカマドがあり、焚火炭火なしに地獄の熱力で湯をわかし、物を茹で、飯をたく等、其他この地熱利用の製菓会社もあると言ったあんばいで、この温泉場は殊に異色のある所である。昔から多くの病患者を全治せしめた歴史に立つ処だけに、今日も別府地方としては、最も湯治入湯気分の旺んな所であり、入湯賄ひの旅館が多く極めて格安に湯治生活が出来るやうになって居る。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載した2枚の写真の解説文はそれぞれ「鉄輪温泉場では地獄の竈でおいもを蒸したりお菜を茹でたり、お茶を沸したり、又お酒のお燗もする。」、「地獄の竈の上でお米を蒸し正月のお餅をついたりお菓子を製造したりする。」とある。

0614o120315_2

No983 鉄輪物語

温泉プールに平屋3棟
別府海軍下士官兵休憩所絵はがき

0611o15  横断道路の海地獄と反対側あたりにあった「別府海軍下士官兵休憩所」のエピソードを前回書いたが、今回はその絵葉書を紹介したい。温泉プールに露天風呂、平屋の休憩施設3棟があった。
0611o15_2  同封の施設概要によると、次の通り。土地が約2030坪(土地高燥にして老松鬱蒼として繁り空気極めて清澄なり)、水源地が約1000坪(休憩所の西北約十丁の山林中にあり水量豊富にして水質極めて良好なり)、家屋三棟(何れも木造平家建にして建物面積合計73・99坪 林間に点在す)、温泉プール一個(縦十三間半 幅五間 深さ三尺五寸乃至四尺五寸)、泉源(イ、海地獄より引湯 ロ、坊主地獄より引湯、ハ、敷地内湧出地獄)、露天浴場(渓間に臨み雅趣に富む)とある。
0611o15_3 0611o15_4 0611o25  さらに備考として、「土地二千余坪の内二二七坪は別府市大野保治より献納せるものにして其の他の土地及施設は別府市高岸源太郎の献納せるものなり」と書かれている。(※注原文はいずれもカタカナだが、平仮名に改めた)(続く)

No982 鉄輪物語

海地獄前に海軍休憩所
昭和13年高岸家・大野家が寄付

0611o15  現在の海地獄前の横断道路を挟んで向かい側あたりに戦前、温泉プールもある「別府海軍下士官兵休憩所」という施設があった。
 海軍がひいきにした料亭なるみの高岸源太郎が昭和13年に寄贈したが、一緒に土地を寄付したのが何と前回朝日村の議場の思い出を語ってくれた大野保治さん(85)=北中=。
0611o15_2  といっても、実際には母チワ(茅輪、平成8年没・享年95歳)がしたことだが、父が早く亡くなったためまだ別府中学2年の大野さんが家督を継いでいた。
  ◇  ◇  ◇  
 献納式は同年11月9日に同休憩所内で行われたが、大野さんは学校から許可をもらい母と出席した。姉や親戚の女学校生が給仕をつとめた。別府中学の兼子校長も来ていたという。
0611o25  なお、献納した土地は戦後、国から「縁故払い下げ」を受けて、噴気を利用する醤油醸造工場をした。「払い下げでは母がなるみの大将と一緒に熊本の財務局に2回ほど行ったと思います。高岸さんがついた泉源を使わせてもらいました。昭和28、29年頃までやったと思います」と話している。(続く)

No981 鉄輪物語

朝日村最後の村長は!?
大野保治さん議場の思い出も

0610o1k  昭和10年に別府市と合併した朝日村だが、さかのぼると明治22年4月1日に鉄輪村と鶴見村が合併してできた。
 歴代村長は(2003年度版『別府市誌』による)松川儀八(明治22年―25年)、佐藤政一(26年―27年)、直江重次(27年―31年)、加藤累三(31年―35年)、佐藤政一(35年―37年)、加藤累三(37年―45年)、西山吉郎(45年―大正14年)、加藤永次(14年―15年)、直江忍(15年―昭和4年)、加藤称司(4年―10年)と10代にわたる。
  ◇  ◇  ◇  
0610o15  ところで前回掲載した最後の朝日村議会(合併前日の昭和10年9月3日)の写真で、裏面に記されている出席者の氏名をあらためて紹介すると、議員が右側から順に加藤末彦、後藤達吾、藤原辰治、後藤熊吉、尼子甚之介の5人、左側から順に平馬太郎、西山盛夫、矢田光夫、直江忍の4人で合計9人。岩瀬清吾が欠席、加藤●(糸へんに丸)と安波利夫は辞職と書き添えられている。
 ところで、正面にいるのが村長で、加藤称司のはずなのだが、村長吉村政次郎と記されていて、どういう事情だったのかは不明。
 ほかに(氏名だけで席順が書かれていないので確定はできないが)画面に向かって村長の左が助役佐藤忠司、向かって右が書記(2人)で隣りが本田信義、その隣りが安波亀治。
  ◇  ◇  ◇  
 さて、この頃の村役場は市の朝日出張所の位置にあった。祖父(吉二)が村議会議長をしたこともある大野保治さん(85)=北中=は「父(信一)が書記をしていたので弁当を持って行ったことがある。壁に掲げてある写真も見覚えがありますよ」と話している。(続く)

No980 鉄輪物語

合併前日の朝日村会議
村議・市議務めたかつきや後藤達吾昭和10年9月4日別府市に

0609o25  鉄輪を含む朝日村が亀川町、石垣村、別府市と合併したのが昭和10年9月4日。その前日の朝日村議会の様子を写した珍しい写真がかつきやにはある。
 後藤章さんの祖父達喜が朝日村の村議会議員をしていて、掲載写真では右から2人目に写っている。
 写真の裏面には「昭和十年九月三日別府市ニ合併スベク最後ノ村会撮影」とあり、議員の名前なども書かれている。親戚の安楽屋の後藤熊吉(右から4人目)も写っている。
 かつきやにはほかに、昭和4年4月撮影の村会議員たちの記念写真もあり、議員は1期だけではなかったようだ。さらに合併後2回目の昭和15年6月の別府市議会議員にも当選している。
  ◇  ◇  ◇  
 ところで後藤さんは昭和17年に朝日小学校(当時は国民学校)に入学したが、祖父達吾に付き添われて校門をくぐった。ところが、入学式では(市会議員だったため)祖父は来賓席にいてそばにはいなかった。心細さから家に帰ってしまった。自宅ではお祝いの餅つきの最中で、餅を食べていると、祖父から「学校にいない」と電話がかかってきた。あとでさんざんに叱られたという思い出がある。
 すでに太平洋戦争も始まっていて、毎朝の登校は町内ごとに集合して2列で隊列を作った。「うちの町内(井田)が一番子供が多かったのだが」と当時を振り返っている。(続く)

No979 鉄輪物語

いでゆ坂沿いに田んぼ!?
かつきや後藤章さん昭和3年に祖父達吾が新築

0608o1k  いでゆ坂沿いで商店と旅館・貸間を兼業している「かつきや」は、当主の後藤章さん(74)=自治委員朝日校区支部長=によると、それまで田んぼだった土地に昭和3年、祖父達吾が新築したという。場所はヤングセンター向かい側のちょっと東側だが、湯治場街のまん中がかつては田だったとは驚かされる。
 達吾は筑前屋(ちくぜんや)の3男で、妻は新屋旅館の次女安波テルヱ。筑前屋というと、県議もした故佐藤晴信さんがいるが、元々は後藤姓だったという。
 達吾は新屋から土地をもらって建てた。貸間のほかに化粧品、タバコ、塩などの販売をしていた。
  ◇  ◇  ◇  
0608o2  以前は農閑期に広島から一週間、10日間と泊まりに来ていた。客は米や味噌を持参し、炊事道具を借りて自炊していた。「時代が変わって、旅行に来てまで料理をするのが面倒くさいという考えになった。素泊まりで外食するようになった」と後藤さん。
 かつきやは玄関前のガレージ部分が泉水だったという以外は、昔とほとんど変わっていないという。(続く)

No978 鉄輪物語

鉄輪俳句支えて18年
愛酎会会長の温泉閣河野さん集まった湯煙情緒の句3万余

 町おこしグループ「鉄輪愛酎会」は、オリジナルブランドの「鉄輪焼酎」販売利益を生かして町作りを行い鉄輪の浮揚を図ろうと昭和59年11月に発足した。
 そのユニークな活動の一つが平成4年8月に始まった「鉄輪俳句・湯けむり散歩」。地獄や旅館など約40カ所に投句筒を置いて、湯けむり情緒を詠んでもらおうとの企画。3カ月に一度回収し、倉田紘文さんの選で季節ごとの優秀句を発表しているが、これまでに集まった句は今年4月末現在で3万536句と膨大な数に上る。
 温泉閣の河野忠之さんは長くリーダーをつとめた原寛孝さんの後を継いで、一昨年12月に会長となった。最近はすべてを入力することはやめたというが、以前は回収した句をすべてパソコンに打ち込むなど、手間のかかる裏方作業を続けてきた。「おかげで倉田先生のような方とお近づきにもなれました」と話している。
 かつての鉄輪では、保守・革新とさまざまな党派の議員もいたが、“鉄輪党”ということでまとまっていたという。町作りへの河野さんの変わらぬ熱意は「そういう先輩たちの薫陶を受けたことがあるかもしれません」という。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※焼酎の売り上げは当初に比べると激減しているため、会員から会費を集めるようになったり、第3水曜日の夜に焼酎を飲む会を開いて親睦を深めるようにしたりと運営方法も変わってきているという。
 ※年間最優秀句を刻んだ句碑も共同温泉前など鉄輪のあちこちに16基。野口雨情歌碑、選者倉田さんの句碑も含め同会が建てた碑は18基を数え、風情ある町の雰囲気作りに一役買っている。優秀句を掲載したカレンダー「鉄輪ごよみ」も長年発行を続けている。

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No977 鉄輪物語

寺の宿坊が始まり
温泉閣智円の妻リユウが経営

0605o25  いでゆ坂をそぞろ歩く観光客。永福寺そばでは自然に境内に目が向き、本堂やその奥にある温泉閣の風情を楽しんでいるようだ。
 温泉閣はもともと寺の宿坊が始まり。古い旅館資料「大正二年度鉄輪温泉使用料徴収人員各月宿屋別表」には13軒の各月の宿泊者数が記入されているが、その中に先々代住職智円の妻河野リユウ(資料には経営者名だけで旅館名はいずれも記されていないため、温泉閣という文字も記されてはいない)の名前が出てくる。
 ちなみに、この年度の13軒の総宿泊者数は7万659人で、温泉閣は3104人。月ごとに見ると、時候の良い4月(638人)5月(607人)に対して、寒い時期の11月(63人)、12月(89人)、1月(62人)の落ち込みが大きく、100年近く昔の湯治客の傾向がわかって興味深い。
0605o15  智円・リユウの娘千種に迎えられた婿養子の茂が先代。現在の河野忠之さん(67)は23歳の時から後を継いでいる。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 掲載写真の1枚は973回の時に載せた昭和10年岩崎實行氏の阿弥陀如来像寄進時の写真だが、その中にリユウ、茂が写っている。

No976 鉄輪物語

松寿寺復活はかなわず
尾道の寺の名を引き永福寺に

0604o2  『別府市誌』(2003年度版)には「縁起によると、建治2年(1276)一遍上人が熊野権現の加護をうけて鉄輪地獄を鎮め、時宗の庵を結び、一遍の幼名をとって松寿庵と呼んだ」とあり、一遍上人が永福寺の開基。
 ところが明治初年に、松寿寺(松寺庵)は住職が亡くなったあと無住になっていたため廃寺となってしまった。
 その後、再興願いを提出するものの、いったん廃寺となったものを復活させることはできないと許されず、苦肉の策で広島県尾道の寺の名前を借りて永福寺となったのが明治24年。
 一方、寺の資料によると建物の方は、当時狭く老朽化していたため、明治33年に建て替えの計画を立てたが資金不足で延び延びとなり、同38年にやっと庫裡の新築が完成、本堂は明治41年に起工し、翌42年11月に完成した。
  ◇  ◇  ◇  
 掲載した『別府温泉繁昌記』(明治42年5月発行)口絵の本堂の写真は、同年11月の落成以前の姿ということになるが、見た限りではほぼ完成しているようだ。本堂の屋根の上にではまだ工事が行われており、作業中の人物の影も見える。
 掲載したもう1枚の写真には、同寺を再興した先々代の河野智円住職(前列左から4人目の背の低い人物)が写る。「再興之碑」は現在も本堂前に立っている。

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No975 鉄輪・明礬物語

明礬へ百数十人の行列
永福寺・阿弥陀如来像の岩崎氏子安観音のほか地蔵も寄進

0603o15  永福寺に大きな阿弥陀如来像を寄進した福岡市の岩崎實行氏は、明礬の“お弘法様”にも子安観音像を寄進したが、元桝屋旅館にはその行列風景の写真も残されている。
 場所は今の明礬うどんがあるカーブのあたり。当時は周囲に一面の稲田が広がっていた。写真左端に写っていて、行列の先頭にいるのが前回紹介した“お弘法様”を守る前野智円。寄進者の岩崎實行・義佐夫妻と僧侶たちも写っている。行列の最後尾には、台座に載せて傘を差し掛けた子安観音像が見える。
0603o2  写っているだけでも、老若男女約130人。道路のカーブあたりの人物は、画面からはずれているので、それを合わせると150人くらいが参加していたのではないだろうか。観音像につながる“善の綱”と呼ばれるヒモを、みな手にしている。
 前回掲載したように、子安観音の由来を調べた桝屋旅館の加藤信さん(故人)や弟の篤さんは、昭和10年10月のことではないかと推定している。また行列は鉄輪の永福寺から出発したらしい。
  ◇  ◇  ◇  
0603o25  現在は湯量不足で休業中の地蔵泉にも、岩崎氏が寄進した地蔵がある。台座に「妙順童子供養為」と刻まれており、亡くした娘を供養するものだったようだ。(続く)


No974 鉄輪・明礬物語

明礬にも子安観音を寄進
永福寺・阿弥陀如来像の岩崎氏 桝屋旅館の常連客だった

0602o2  昭和10年3月、鉄輪の温泉山永福寺に大きな阿弥陀如来像を寄進した福岡市の岩崎實行氏。実は明礬温泉の地蔵泉そばにあった桝屋旅館の常連客で、明礬にも子安観音を寄進していた。
 現在、ゑびすや旅館の下にある“お弘法様”と呼ばれる一角に安置されている子安観音。寄進された当時の写真が元桝屋旅館にあり、それを見ると、岩崎夫妻や僧侶らのほかに、この“お弘法様”を守っていた安野智円(女性)、その智円と茶飲み友達でもあった桝屋旅館女将の加藤ナヲや孫らが一緒に写っている。
0602o2_2  写真の隅に写る5歳くらいの男の子が、ナヲの孫で元自治会長の加藤篤さん(79)。平成8年に当時長寿会会長だった兄信さん(故人)が「長寿会便り」に書いた文章(「お弘法様境内の子安観世音について」)と写真をコピーした資料を作り、子安観音のことを知ってほしいとこのほど配布した。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※明礬薬師寺そばにあり、おびただしい石の仏様が安置されている「明礬八十八カ所」。明礬の歴史に詳しいみどり荘の加藤義則さんによると、次の通り。(すでに2年前に本連載で紹介したが、再掲する)
 ――大正初期、明礬地区に居住していた安野智円という女性が弘法大師をお祀りすることにより苦しみ悩む人を助けるため、衆生済度を始めた。住民をはじめ多くの信者の寄進により、明礬入口の所に大正11年大師堂が落慶した。
 その後、智円は弘法大師のお告げにより「温泉四国八十八カ所」の実現を発願。大変な努力で88カ所の仏ができあがった。金比羅様、鍋山、滝場、クロオソ一帯に地区民や信者によって寄進者名を刻印し、観音像・弘法大師1対ずつが安置された。
 昭和26年に亡くなったあとを嗣いだのが、娘の内田ロク。ロクを中心に、あちこちの山に安置された仏をこの滝場の霊場に集める奉仕作業が行われたのが、現在の「明礬八十八カ所」。

No973 鉄輪・明礬物語

神経痛治ったお礼に
温泉山永福寺福岡の岩崎氏 如来像寄進

0601o2  温泉山永福寺を訪れた人の目を引くのが、本堂前に聳える阿弥陀如来像。
 台座には昭和10年3月、先々代の河野智円住職の時代に、福岡市博多大学通り1丁目に住む岩崎實行(じっこう)という人が病気平癒のお礼に寄進したことが刻まれている。
 孫の岩崎国武さん(79)=福岡市=によると、湯治で神経痛が治ったお礼と先祖供養のためだった。鉄輪のほかに明礬、さらに福岡県の那珂川町にも寄進しているという。
0601o25  「祖父は大正半ばから昭和11年まで、コルセットの製造販売をしていました」とのことで、腰を痛めた人の背筋をしっかりと保つための矯正用具を扱う商売をしていた。義手・義足を神戸から取り次いで販売することもしていた。
 掲載写真では、画面右側中央が岩崎氏で、そのひざに寄りかかって立っているのが5歳頃の国武さん。自分では記憶はないが、刀でひもを切って除幕したそうだ。ここ数年は来ていないが、毎年永福寺と明礬の子安観音にお参りを続けていた。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
0601o15  ※掲載写真で岩崎氏の左隣り(杖をついている僧侶)が当時の住職河野智円。岩崎氏の右後ろが先代住職の河野智善。画面左側2列目は岩崎氏の妻義佐(ぎさ)と国武さんの両親。
 ※台座に刻まれている文面は次の通り。「奉納 病気平癒ニ付大恩ヲ報ズル為メ記念トシテ謹テ建之 温泉山永福寺智円師代 施主 岩崎實行」、「温泉山永福寺中興開基智円代 昭和十年三月建設 阿弥陀如来 福岡市博多大学通一丁目 施主 岩崎實行 妻義佐 博多石匠 国広石峯」

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