No1015 鉄輪物語
家族同様だった傷病兵ら
辰巳屋旅館戦時中は陸軍の臨時病棟に
戦争が激しくなると、別府市内の旅館は海軍病院に収容しきれない傷病兵であふれたが、鉄輪の各旅館は陸軍病院(小倉陸軍病院別府分院)の鉄輪病棟となり、辰巳屋旅館にも白い着物姿の傷病兵が大勢いた。
旅館主の木村健三さん(66)は昭和19年生まれで当時の記憶はないが、大学生の頃京都でタクシーに乗ったところ、運転手が昔旅館で世話になったからと料金をタダにしてくれた。別の傷病兵が赤ん坊の木村さんを抱き、防空壕に避難した思い出話も聞かされた。
姉の洋子さん(73)が子供の頃は、傷病兵がたくさんいて、旅館前の道路で体操をしていた。「兵隊ばかりだった。家族みたいにしていました」。
いでゆ坂を挟んで向かい側のときわや旅館だけは海軍の軍人がいたが、庭で遊んでいる時に大きな石が倒れかかってきたのを助けてもらった。「兵隊さんが気が付いて石をのけて、病院に抱え込んでくれた。とてもやさしかった」と話している。
辰巳屋の前で、兵隊に行く地元の若者の出征祝いもしばしば行われた。「もちろん自宅でもしてもらっているのだろうが、旅館の餅つきの時に青年団が来てついてくれたりしていた。餅つきは芸者さんが三味線を引いて賑やかでした」と洋子さん。旅館と青年団との交流が深かったせいだろうという。
◇ ◇ ◇
ところで、木村さんは旅館に「五養宿」という名前も付けている。休養、保養、療養、修養、教養の5つの「養」を意味する。「今は一泊二日が多くなったが、もっと長く滞在して、心も体もゆったりと癒してほしいんです」。
鉄輪ではかつて伽藍岳の地熱発電反対運動をきっかけに、町作りの基本計画構想を策定。明礬・柴石と合わせて環境省(当時は環境庁)の国民保養温泉地指定(昭和60年3月)、さらに国民保健温泉地指定(同61年7月)を得た。木村さんは先輩たちが頑張って勝ち取ったものを生かしたいと、「保養滞在型」の鉄輪に向けてさまざまにアイデアを練っている。
◇ ◇ ◇
※前回紹介した東京理科大学教授の平川信義は改名して淳康と名乗っていた。数学の研究者で、「初等射影幾何学」などの著書がある。


最近のコメント