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No1285

金田投手の球受けた根来二中野球部の高平静一さん2年生まで一緒にプレー

0819o1k  高平憲吉さんの2級上の兄、静一さん(74)=神奈川県在住、青山中5回生・昭和26年度卒=も中学時代は野球部。ともに監督は体も声も大きく、ターザンのあだ名があった矢野昭次先生だった。
 同級生に西小から来た根来広光さんがいた。静一さんがショート、根来さんがセカンドを守ったが、2年生の2学期頃には広島へ引っ越してしまった。
0819o25  根来さんはのちにプロ野球、国鉄スワローズに投手で入団し捕手に転向。最盛期の金田正一投手とバッテリーを組んだことで有名。その後阪急ブレーブスに移籍し、現役を退いてからはヤクルトスワローズなどのコーチや野球解説者をつとめ、おととし73歳で亡くなった。
 高平さんによると、根来さんが恩師矢野先生を試合に招待したことがあった。「矢野先生から聞いた話ですが、チケットを送って来て、試合後は寿司屋でごちそうしてくれたそうです」。
  ◇  ◇  ◇  
0819o15  さて、静一さんが3年生の昭和26年7月、三中(中部中)野球部が中体連で優勝したことはすでに紹介した。対戦したのが二中で、高平さんは1年生部員として試合を見守っていた。「兄は勝つんだと言っていました。自信を持っていたようです」。残念ながら2対8で敗れ、栄冠を手にすることはできなかった。
 掲載した表彰式の写真に写っているのは、画面左側が三中で、優勝旗を持っているのが佐藤主将。一方、右側の二中は賞状を手にしている森田主将をはじめ選手は丸山、富田、高平静一、植良、藤本、野崎、平岡、広田、友永ら。
 ユニフォームに「nichu」(二中)と書かれているが、2カ月後の9月に青山中に改称される。試合が行われたのは今の境川小学校グラウンドの位置にあった球場だった。(続く)

No1284

プロに進んだ野球仲間
二中・青山中の7回生高平さん敗者復活戦で優勝し県大会へ

0818o1k  西鉄ライオンズで大活躍した故稲尾和久投手のほかにも、別府出身の優秀な野球選手がいた。
 昭和28年度卒の青山中7回生、高平憲吉さん(72)=北浜3丁目=が中学の野球部で一緒にプレーした山本征良(ゆきよし)さん=故人=も鶴見丘高校からプロ野球、南海ホークスに外野手として入団した。
 「私がサードで、山本はピッチャーと外野手。3年生の時は浜脇中学校に一度は負けたが、敗者復活戦で勝って優勝した。県大会は1、2回戦で負けたと思います」。
 山本さんは鶴見丘高校野球部でも夏の甲子園へ。「山本は野口小でも優勝、青中でも敗者復活戦で優勝し、高校でも大分・宮崎・鹿児島の3県の大会で優勝し、甲子園に出場しました」。
0818o2  入団が決まってから、中学時代の野球部仲間5人が高平さん宅に集まった。山本さんは南海のユニフォームを見せてくれたという。
  ◇  ◇  ◇  
0818o2825  ところで、高平さんは三中(中部中)校区の北小卒業生だが、父弘さんが亀の井ホテル重役だったため、同ホテルに寄留しているという名目で二中へ進学した(昭和26年)。1年生の9月から青山中に校名が変わり、2年生の11月から現在地に建った新校舎に引っ越した。入学時は大正時代の古い木造建築だったが、新しい校舎は文部省のモデルスクールとして建てられた近代的な鉄筋3階建てだった。(続く)

No1283

昔の校地は今の半分?
一中の前身別府市高等小学校火災後は元殖産館で授業

0817o2  一中前身の別府市高等小学校は昭和3年に開校し、同6年に校舎が新築されたが、同12年6月4日に火災で全焼した。
 戦前の今日新聞によると、「男子部は旧殖産館に十一学級を収容する事にし女子部は西、蓮田、南、野口の四校に配分九学級がそれぞれ授業を七日から行ふ事になった」とあって、校舎が再建されるまで、男子生徒はのち二中の校舎に使われた元殖産館(大正5年に大分県物産陳列場としてできた建物。現在の青山小の位置)を仮校舎にして勉強した。女子生徒は各小学校に分散して授業したようだ。
0817o25  また火災の模様を伝える記事には「何しろ水の便利が悪いので駆けつけた消防手も手が出せず、付近の野次馬同様、嘆声を洩らしながら見物してゐるばかりだ。」といった文面もある。
  ◇  ◇  ◇  
 ところで、戦後まもない頃までは運動場の南半分は一段低くなっていて未整備だったことを紹介したが、今回掲載した火災後の片づけの様子を写した写真を見ると、本館の焼け跡のすぐ南側まで林が迫っているように見える。
 まだ十分検証しているわけではないが、一中の校地はもともと北半分だけで、のちに南側に拡張したように思われる。(続く)

No1282

風格ある昭和6年の校舎
一中の前身別府高等小学校昭和12年6月に全焼し再建

0816o2  一中(山の手中)の前身である別府市高等小学校について、少し触れたい。
 昭和3年に開校したが、最初は北、野口、蓮田の各小学校の校舎に間借りしていたようだ。新築校舎は同5年3月18日に起工し、翌6年2月8日に落成し、同11日から授業が始まっている。
 掲載した写真を見ると、風格のある立派な校舎だったようだ。現在の山の手中の校舎の位置に建てられた。
 残念ながら昭和12年に火災で全焼し、そのあと再建された。掲載した写真を見ると、校舎のデザインが少し変わっているのがわかる。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
0816o25  ※昭和8年「別府市誌」の別府市高等小学校の項は、次のように記されている。
 ――一、昭和三年三月三十一日 創立さる校舎は北、野口、蓮田各小学校の校舎の一部を仮校舎として四月五日より授業を開始す
 一、昭和三年三月三十一日付 別府市北尋常高等小学校長大津留大蔵本校長となる
 一、昭和四年三月三十一日付 校長大津留大蔵退職後任として岐津真佐蔵校長となる
 一、昭和五年二月十五日付 本校校舎新築並位置変更の件県知事より認可せらる
 一、昭和五年三月十八日 起工翌六年二月八日落成二月十一日より授業を開始す
 一、昭和六年十二月六日 御真影奉安殿落成 当時の市会議員の寄付に係る
 一、昭和七年二月六日 教育勅語謄本下賜
 一、昭和七年十月二十六日 両陛下御真影拝戴――
 ※「現聞日誌」では昭和12年4月26日(旧暦)に「別府高等学校火事全焼」とあり、新暦に改めると6月4日金曜日に火災が起きたようだ。


No1281

一段低かった運動場南側
一中2回生の布施英彦さん校舎見取り図は昭和22年度

0815o2  新制中学発足の昭和22年に一中(山の手中)2年生になった布施英彦さん(78)=市内扇山=に、当時の思い出を語っていただいている。
 当初は運動場は南側が一段低くなっていて、石ころが転がっていてまだ整備されていなかった。したがって、現在よりもかなり狭かったが、「中体連もやっていた。校舎から応援しました」という。
0815o25  掲載した運動会の写真2枚はともに山の手中の昭和30年代の風景だが、運動場はすでに現在と同じように広がっている。
 一生懸命に競技する生徒たちの背後には、一中時代と変わらない校舎が並んでいて、正面の本館(2階建て)のほか、向かって右側に木工室など(平屋建て)、向かって左側に作法室・家事室(平屋建て)と南側の校舎(2階建て)があるのがわかる。
  ◇  ◇  ◇  
0815o2_2  掲載した「別府一中校舎平面図」という見取り図は、布施さんによると、昭和22年度のもの。見取り図は2階部分を分けて描いているので、一見しただけではわかりづらいが、南側の2階建て校舎(図の左側)に2年生が6学級入っているのが、ちょうど布施さんが2年生の時。本館1階の3年生は3学級だけ、同2階の1年生は12学級もあって人数が多い。翌年布施さんが3年に進級した時には、他の部屋も教室に充てて増やしていた。(続く)
 ※写真と平面図はともに山の手中所蔵。
  ◇  ◇  ◇  
 きょう8月15日は66回目の終戦記念日。布施さんは当時西小6年生。「1学年上の中学生(旧制の別府中学)は大分市の軍需工場に行ったりしたが、自分たちはそうでもなかった」と話す。温泉神社の草むしり、中山別荘あたりでドングリ拾い、空襲から守るため西小の備品を枝郷へ運んだりしたという。

No1280

卒業して別府一高へ
一中2回生の布施英彦さん進駐軍がさっと運動場整備

0813o2  新制中学校がスタートして、校名に番号を付けていた時代のことを取り上げているが、昭和23年度から発足した新制高校でも別府第一高校(鶴見丘高校)、別府第二高校(緑丘高校)と番号を付けた時期があった。
 布施さんは昭和24年3月に一中を卒業して、別府一高に入学した。最初は浜脇の殖産館の仮校舎で、そのあと、机や椅子を持って引っ越しした。
 最初はなかった運動場を、進駐軍がブルドーザーであっという間にならして整備してくれたことも覚えている。
0813o2_2  布施さんはその後、大分大学に進み、中学の数学の教師として、主に山の手、青山、北部、朝日などで教鞭をとった。
  ◇  ◇  ◇  
 この別府一高の運動場整備について、鶴見丘高校の「学校史」(昭和54年3月)に当時の校長の回顧の引用として、エピソードが紹介されている。
 5、6段の石積みの芋畑、麦畑、ビワ畑でどこから手を付けてよいかわからないといった状態で、整備するお金もない。そこで市長や警察署長と一緒に進駐軍のキャンプに押しかけて連隊長に直談判。しぶしぶ視察に来てくれたが、「OK、十七日間で完成して上げよう」と言ってくれたという。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
0813o25  ※今回も含めて掲載した一中の写真では、いずれも校舎の壁面が黒っぽく汚れているのがわかる。現在の別府市中央公民館が戦争中はコールタールを塗り、空襲の標的になることを避けたことはしばしば語られるが、同様に一中の校舎もコールタールを塗ったのだろう。

No1279

2・3年生で2度も修旅一中2回生の布施英彦さん広い廊下で盆踊りも企画

0812o2_2  昭和22年の新制中学発足で一中(山の手中)2年生になった布施さんだが、2年生は阿蘇山へ、3年生では金刀比羅宮へと、2度も修学旅行があった。
 阿蘇山は6学級が2学級ずつ出かけたため、列車で行く途中に帰りの組とすれ違った。
 3年生の修学旅行は往復3回の船中泊と旅館1泊の3泊4日。金刀比羅宮参拝のほかに、屋島や栗林公園も見物した。物資不足の時代で、各自が米とお茶の葉を持参したという。
 掲載した写真には「昭和二三年五月二六日琴平旭社前ニテ記念」とあって昭和23年5月26日の撮影日がわかる。今回掲載していないが、屋島で撮影した別の写真には前日25日の日付が入っていて「昭和二三年五月二五日屋島ヨリ瀬戸内海ヲ望」と書かれている。
  ◇  ◇  ◇  
0812o3_2  2年生は平等編成だったが、3年生は1組と2組が受験組(進学クラス)で、男子40人と女子10人のクラスだった。布施さんは学級委員長で、生徒会は副会長(生徒会長は女子生徒)だった。
 生徒会で“盆踊り大会”を企画したことがあり、本館から裏の講堂へ向かう広い廊下と講堂で踊りの輪を広げた。「男子はあまり参加せず冷やかしたり。女子は化粧はしなかったが浴衣を着ると大人びて見えました。二度と出来ないだろうなあと思いました」。(続く)



No1278

男女共学に戸惑う
一中2回生の布施英彦さん高等小入学 2年で新制中学に

0811o2  山の手中学校同窓会長で、一中2回生の布施英彦さん(78)=市内扇山=は西小6年生の時に終戦。翌昭和21年に別府高等小学校に入学した。
 翌年は新制中学校発足で市立第一中学校ができたため、一中の2年生ということになった。校舎は変わらなかったが、新しい教育制度になって変わったのが「男女共学」だった。
 高等小学校では男女生徒は校舎も運動場も別々で、全く接触はなかった。共学になったが、「話したこともなかったので、どうしたらよいかわからなかった」という。
0811o1k  義務教育となって学費がいらないことも大きな変化。「旧制中学はお金が必要だったが、無料になって助かった」。
  ◇  ◇  ◇  
 「創立50周年記念誌 萌」に布施さんは次のように記している。
 ――昭和二十二年四月二十三日に三年間の中学校を義務とし、男女共学を原則とする別府市立第一中学校として開校しました。
 (中略)高等小学校より二、三年生の編入、蓮田、南、西、南立石小学校よりの新制中学一年生、全校で二十一学級九九二名でした。
 あの頃は旧高等小(国民)学校の校舎の使用で、教育環境は恵まれていましたが、教材、教具等が大変不足していて苦しい時代でした。
 五月三日新日本憲法が施行されて、民主主義、自由主義、権利、義務、責任等、新しい考え方も少しずつ理解されてきました。
0811o25  平和のシンボル鳩の羽根、第一中学校の一をとった校章、校歌、中体連での応援歌を力いっぱい歌ったこと、男女共学での体育大会、校則について先生方との討議、自治を大切にする生徒会の活動等が強く思い出されます。――(続く)

No1277

前身は別府高等小学校
一中として出発した山の手中

0810o25  一中(山の手中)は新制中学校発足の昭和22年にスタート。校舎は別府高等小学校の建物だった。
 昭和48年「別府市誌」には、次のように書かれている。
 ――昭和二十二年四月一日、別府市立国民学校(前別府高等小学校)校舎を別府市立第一中学校として設置。同十三日、別府市立高等女学校長大石新を初代校長に任命。職員数三三名、生徒数九九二名、学級数二一をもって編成。
 学校区―西小学校区(ただし田ノ湯・上田ノ湯を除く)南小学校区全域、南立石小学校区全域、蓮田小学校区(八幡・南末広・河内・東蓮田・西蓮田・田ノ口・西町・山田・上町)。――
  ◇  ◇  ◇  
 山の手中学校の「創立50周年記念誌 萌」(平成10年2月)の「歴代校長思い出を語る」では、立川武夫第六代校長が「昭和二十二年四月無い無いずくしで新制中学校発足。(中略)幸いに国民学校校舎を受け継ぎ教育活動も迅速に出来た。名実共に備わる学校を目的に、職員生徒真剣に努力した。」と記している。(続く)

No1276

猫の額だった運動場
今の青山小にあった二中昭和24年天皇巡幸を機に整備

0809o25  青山小学校の位置にあった二中の運動場について、青山中学校の「四十周年記念誌」に3回卒の速水宗譲別府市PTA連合会会長(当時)が「猫の額のような校庭。急遽作られた学校なので、校庭は松林を切ってそれらしい体裁を整えたもので、野球をすると、一塁から二塁へは坂道を上がるような傾斜でおまけに石コロだらけ、石コロと傾斜で足をとられ、盗塁はまず不可能でした」と書いていて、最初の頃は運動場の体をなしていなかったようだ。
 現在の青山小運動場のように整備されたのは昭和24年6月8日、昭和天皇の大分県巡幸で市民奉迎場となったのがきっかけで、「天皇陛下の別府行幸に際しての奉迎会場になったため、立派に整備されたものです」と証言している。
 運動場については、青山中の記録にも5月22日に「運動場工事竣工 祝賀体育大会開催」、6月8日「天皇陛下奉迎 本校校庭市民奉迎場となる」と書き残されている。
 速水市P連会長(西法寺住職、故人)は、前回の石川院長と同じ昭和22年入学の3回卒業生。入学時に野口小から机と椅子を運んだことや、入学者が「野口小、西小の一部、蓮田小(現浜脇小)の新一年生、三校区出身の旧高等小学校よりの二・三年生」だったこと、古い校舎が土足だったこと(「靴というより下駄ばきのまま、つまり土足で上がる教室には驚きました。もっとも、土足の校舎は、三年生の時には教室や廊下に板が張られ、土足禁止になりました」)も記している。
  ◇  ◇  ◇  
 二中は他の新制中学校と同じく、昭和26年9月1日にナンバー制の校名から青山中学校と改称。昭和27年1月11日に現在地に、文部省指定学校建築モデルスクールとして鉄筋校舎第一期工事が着工し、同10月30日竣工。同11月15日に新校舎に移転し、授業開始している。(続く)

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