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No1327

叔父に勤王の志士も
桝田屋・野田家のアルバムよりのち大中で教えた下村御鍬

1014o25  昭和45年「安心院町誌」には多くの人物の略伝が掲載されている。
 すでに紹介したように、山中病院については「御許山挙兵の志士下村御鍬の兄木下耕十郎は家を嗣ぎ、旧里正木下雄吉とはかり私立山中病院を創設して院長に甲斐原益太を迎えた。」とあったが、野田敏彦にとって叔父(実父耕十郎の弟)に当たる下村御鍬(しもむらみくわ)は、勤王の志士で、のち三重県の郡長、大分中学教員をつとめ、大正8年76歳で没した。
 掲載した写真には大分中学時代の敏彦(後列右から2人目)と、前列中央に同中教師の下村御鍬も写っている。
 また最初に山中病院に院長として招かれた甲斐原益太がどんな人物だったかというと、慶応元年に筑後柳川藩の士族の子として生まれ、医学校を卒業し東京警視庁関係の医師を拝命。退官ののち木下雄吉、木下耕十郎に請われて山中病院を開業して活躍したが、明治32年34歳で没した。
 敏彦の長兄の木下豊太郎についても、あらためて紹介すると、医を志して明治20年に三高に入学したが病気で中退。のち大阪薬学校に変更して、薬剤師となった。大分病院や別府の朝見病院薬局長をつとめたあと、嗣子で実弟の正比児とともに山中病院を復興した。(続く)

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