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No1754

23年前に閉鎖した風情ある“月見温泉”
秋葉通りから戦後現在地へ

 西小学校にほど近い、水道橋(朝見川)のたもとに、月見温泉という風情ある名前の元浴場が残っている。

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 水道橋は、八幡朝見神社への初詣客で行列のできる場所といえば、他地域の方も見当がつくかも知れない。
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 隣接する大野家が所有。3歳の時から祖父久の膝に抱かれ番台に座っていたという、当主の公則さん(56)は「曾祖父大野吉蔵を中心に7軒が出資して組合を作り、地域住民のために作った温泉。最初は屋根がなかったので、月見温泉と名付けたそうです。朝見地区からの清水をふんだんに使い、柔らかいお湯を楽しめた公衆浴場でした」と自慢する。

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 現在の中島町や光町、朝見からかなりの入浴客があったが、23年前の平成3年11月10日に閉鎖した。
 交代で番台に座り夜は掃除をしていた組合員が高齢化し、番台が無人になった。料金を払わずに入浴する人や深夜に侵入する不届き者もいた。利用客減少に加え、浴場に引いていた清水の配管をダンプカーが壊した時、元栓を閉めて修理していたら清水が出なくなったことが追い打ちをかけた。
 「経費のかかる水道水では運営できない。父(益弘さん=故人)が組合員と相談して閉鎖を決めました」。
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 意外なことに、もともと秋葉通り沿いにあった。
 近くに住む伯母(益弘さんの姉)の田中久美子さん(83)によると、西小の東端にある古い正門のすぐ海側だったという。
 かつて金山だったラクテンチのほうから引き湯していたため、子供の頃、お湯の中に金がキラキラしてきれいだった思い出がある。
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 郷土史家安部巌氏の労作「別府温泉湯治場大事典」の月見温泉の項は、「大野久氏の教示による」として、「はじめは現西小学校々庭の東側にあり、雲泉寺温泉の残り湯を利用して浴槽をつくり、簡単なトタン葺きの家を建ててあった。」と解説している。雲泉寺温泉は今も、ラクテンチ下の木村橋そばにある共同浴場。

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 ただし、同書では昭和16年に現在地に移転したとしているが、移転は戦後なので、昭和16年は創設時期のことだと思われる。
 というのは、田中さんによると、進駐軍の下水処理場工事を担当した土建会社星野組の事務所建設で、立ち退きになったため。
 大野家の屋敷の東隣にあった大きな池をつぶして、そこに建て替えた(現在地)。星野組からは資材の提供を受けたという。
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 ※田中さんが幼い頃、月見温泉ができる前は、仲ノ橋下の朝見川の川原に小屋がけの温泉「川の湯」があって、入りに行っていたらしい。
 ※月見温泉は湯船は男女2つずつあり、2畳分ほどの大きな湯船と半畳分くらいのぬる湯の湯船があった。なお閉鎖後は井戸水を使って湯船でコイの飼育をしていた。

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 ※掲示されている昭和55年1月の温泉分析表によると、泉源は野口原の「明星学園前給湯枡」となっており、泉質は「単純温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)」とある。

No1753

占領軍接収の白雲山荘
豪州兵が記念撮影血の池地獄も見物に

 少し前に米国から入手した戦後まもない頃の写真などを紹介してきたが、その続きとして今回はオーストラリアから入手した写真2枚。

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 戦後、別府に進駐した中には豪州兵もいて、別府の写真を持ち帰ったのだろう。それがおよそ半世紀の時を経て、海を越えて里帰りし記者の手元にあるというわけだ。
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 1枚は血の池地獄見物。もう1枚には、1947年(昭和22)3月18日の日付と「HAKUUN HOTEL」と書かれた黒板が写されているので、場所と日付がわかる。
 観海寺の白雲山荘は、掲載した同ホテルの絵葉書のように、かつては和風の建物が並んでいた。

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 豪州兵たちが訪れた頃は、すでに占領軍に接収されていた。それを見物に来たのだろうか。なお、血の池地獄の写真も同じ日の撮影と思われる。
 女性の姿も数人見られ、また別府市の通訳として知られる中島辰男氏の姿が2枚とも写っている(白雲山荘の写真では右端)。
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 占領軍によるホテルや個人宅の接収について、昭和60年「別府市誌」には次のように書かれている。

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 ――大分市駄ノ原の旧大分連隊兵舎、別府市野口原のキャンプに駐留した占領軍は、将校や下士官の宿舎などに使用するため、別府市内のホテル、個人の住宅などを接収した。
 二〇年一〇月には鶴田ホテル、清風荘が、ついで八坂ホテル、雅泉荘、杉乃井、鶴乃居、白雲山荘、観海荘、海浜ホテル、高砂旅館、南風荘などが接収され、占領軍に使用された。東洋軒も占領軍専用のレストランとして接収された。個人の住宅、別荘も日名子増太郎邸や赤銅御殿の伊藤伝右衛門邸など二九軒が占領軍に接収されている。また、別府ゴルフ場や関の江海水浴場なども接収され、占領軍専用となった。――
 また、昭和56年の佐賀忠男著「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」の接収ホテル・レストラン一覧によると、白雲山荘は、下士官宿舎で、接収は昭和21年8月5日、接収解除は同26年1月31日だった。この一覧では、海浜ホテル(英豪婦人将校宿舎)と高砂旅館(下士官・豪州兵)に豪州の文字が出てくる。

No1752

キャンプにボートに
戦前も賑わった志高湖野営場

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 夏休みといえばキャンプ。志高湖には戦前からキャンプ場とボートの設備があった。
 当時の今日新聞(昭和11年7月21日)は、「申込み殺到 キャンプ村賑ふ」の見出しで、市外の学校から次々と予約が入っていると報じている。
 ――志高湖キャンプ場は二十日より開幕したが十八日には宮崎バスガール児玉梅子さん外八名、二十二日夜は福岡県立八女高女八十名が大挙してキャンピングを行ふほか二十三日は佐伯中学校生徒二十八名が久住登山の帰途志高湖でキャンプ、二十四日は四日市高女生四十名などのテント使用の届出が続々市観光課にあって開幕早々大繁昌振りである、なほ内山のキャンプ場は八月一日から開場する。――

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 「別府市誌」(2003年度版)によると、「昭和8年(1933)、志高湖に大分県で初めてのキャンプ場が開設され、翌年には湖にボートが浮かべられた」とある。80年以上も前に設置され、県下初のキャンプ場だったわけだ。
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 アウトドアの活動を観光の売り物にしようとつとめていたようで、別府市観光課はキャンプ場などを紹介する「山の別府」というタイトルのパンフレットも発行している(昭和10年代と思われる)。

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 志高湖については、「志高湖キャンプ場は別府市街から約十キロ(二里半)、由布院線バスで三十分、鳥居で下車、志高湖畔まで徒歩十数分で到着します。別府第一の市設キャンプ場で大小各種のテント約五十張、日用品、菓子、飲みもの類の売店、ボートなどの設備があります。湖面には由布、鶴見の山々が影をうつし城島原の緬羊場を遠くに見る風光の地です。」と、交通の便利のよさなどとともに、由布・鶴見の山々や、当時緬羊が飼われていた城島原(城島高原のこと)が遠望できる景色のよさもPRしている。
市美術館である写真展「BEP。ZIGOKU」

No1751

浜脇に別府水族館
昭和32年博覧会の時に設置

 大分市の大分マリーンパレス水族館「うみたまご」は、夏休みの子供たちで連日賑わっているようだが、半世紀前まで別府にも水族館があった。

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 昭和32年の博覧会(別府温泉観光産業大博覧会)の時に浜脇に作られ、そのまま同40年まであった別府水族館。場所は現在の浜脇漁港あたり。
 海水魚と熱帯魚約120種類を飼育し、屋外の池にはオオウミガメもいた。
 しかし、時代遅れになっていったのだろう、昭和40年のマリーンパレス開設などをきっかけに、議会で閉鎖が決まった。
 2003年度版「別府市誌」は「この頃より全国的に水族館ブームが起こり、最新の大型の水族館が建設されるようになると、次第に観客の要望に応えることができなくなっていった。加えて、38年8月の台風9号による被害や40年の大分生態水族館(マリーンパレス)の開設などがあり、同年12月議会で閉鎖が議決された。」と記している。
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 別府水族館(別府浜脇公園内、TEL4041)のパンフレットによると、施設の概要は次の通り。
 敷地は1000坪、建物は鉄筋コンクリート建130坪。本館には水槽が一面硝子水槽30槽、平水槽2槽、熱帯魚槽15槽、予備水槽6槽と合計53の水槽があった。海水魚約100種類、熱帯魚約20種類を飼育。

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 2階には標本展示室、展望遊歩場もあった。屋外放魚池にはオオウミガメもいた。子供遊園施設としてブランコや滑り台もあった。
 入館料は大人30円、小人20円で団体(30名)は各20円と10円。開館時間は午前8時30分から午後5時。

No1750

観光地同士が手を結べ
関西との交流に尽くした梅田凡平

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 大阪お伽倶楽部の子供たちの旅行風景を写した、「ニコニコ振りを山へ海へ」という絵葉書を前回紹介したが、今回は同じ旅の写真を集めた「大阪お伽倶楽部第七回瀬戸内海旅行紀念」と題する写真帳。日付はなく、裏表紙に「大阪電報通信社写真部調製」と、印刷した会社の名前だけが記されている。
 表紙の汽船は、“大阪の夢二”とも称される大正ロマンの画家・宇崎純一(すみかず、1889―1954)の絵。○にスの字のサインが入っている。
 収められている写真は16葉。途中に立ち寄った宮島や、耶馬溪、宇佐神宮、帰り道に寄った高松のほか、別府の地獄めぐりなどが写されている。
 掲載したのは、大阪と別府のお伽倶楽部の子供代表の握手風景。宇佐から別府に列車で到着し、駅前で歓迎式があったようだ。
 もう1枚は柴石温泉の滝湯(現在は使用されていない)を見物した一行。前回紹介したように、現在なら当然バスや自家用車で行く地獄めぐりを当時の子供たちはせっせと歩いて回った。その途中で見物したのだろうが、「別府地獄ニ於ケル所見」と見当外れのキャプションが付けられている。別府のことを知らない大阪の人が、タイトルを考えたのだろうと思われる。
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 さて、夏休みを利用した大阪の子供たちの船旅は毎年続けられていたようだが、その企画や案内に尽力した、別府お伽倶楽部のニコニコおじさんこと梅田凡平はどんなことを考えていたのだろうか。
 宝塚少女歌劇団の別府公演(大正13年11月)に合わせて、別府宣伝協会が発行した雑誌「別府」創刊号に、梅田が書いた「全国遊覧地の総同盟を提唱す」という一文が掲載されている。
 世界から観光客を集めるには、観光地同士が手を結ぶことが必要だと主張していて、「京都、奈良、宝塚、乃至宮島、別府等其他全国の名所旧跡の名ある遊覧地は皆各異なった特色を有してゐるから各遊覧地は互に有無相通じて旅行者に満足を与ふるの覚悟がなければならぬ」と書き、お互い連絡をし合って、旅行者が不自由なく次の観光地に行けるようにしなけらばならないと訴えている。

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 大阪と別府のお伽倶楽部の交流も、この主張の趣旨と通じているように思われる。

No1749

ようこそ大阪の子供たち
別府のお伽倶楽部と交流

 掲載したのは「ニコニコ振りを山へ海へ」という、ちょっと変わったタイトルの絵葉書で、大正時代のものと思われる。

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 発行者の別府お伽倶楽部ニコニコおぢさんとは、油屋熊八の盟友で別府宣伝に活躍した梅田凡平(1891―1929)。
 子供たちへの文化活動を行うお伽倶楽部という組織は、各地にできていた。別府お伽倶楽部はニコニコおじさんがニックネームの梅田と水引のおじさんこと原北陽(写真師)、そしてピカピカのおじさんと呼ばれた油屋らがメンバーだった。
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 絵葉書は、夏休みを利用した大阪お伽倶楽部の旅行団一行の、別府見学の模様を撮影したもの。参加者たちに配られたものだったのだろうか。
 掲載した1枚には「別府名所、観海寺、志高湖畔、八幡、坊主、海、血の池等地獄廻り一行」と説明があり、現在のような舗装道路ではなく、石ころも目立つ道を下駄履きで歩く子供たちの列が写っている。
 現在の杉乃井ホテル下あたりにあった八幡地獄から、坊主地獄、海地獄、血の池地獄と地獄を歩いて巡るのも大変だったろうが、さらに山の向こうの志高湖までも出かけたとは、当時の子供たちの健脚ぶりに恐れ入る。
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 大阪の旅行団を受け入れ案内をした梅田凡平について、別府町から別府市になった大正13年発行の別府案内写真集、「市制記念別府温泉画報」では次のように紹介している。

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 ――関西でニコニコオヂサンの聞へある梅田氏は別府不老町通りで別府お伽倶楽部、関西お伽倶楽部の御世話をしてゐる。此人は真の別府宣伝者で頗る活動家である。若しや別府の事にして用事等の節は御遠慮なく御問合せになれば悦んで御世話下さると云ふ。実に結構な事である。(※読みやすく句読点を一部補った。「オヂサン」は「ヂイサン」と誤表記されていたので訂正した)――(続く)

No1748

天下無比の海水浴場
山内流古泳法も盛んだった

 臼杵市でこのほど、毎年恒例の山内流古泳法の大会があったそうだが、かつての別府でも盛んだった。

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 掲載した1枚は「羽交抜手(豊後別府遊泳所)」というタイトルの絵葉書で、山内流の技を披露している光景。臼杵出身で田の湯の旅館「喜久屋」を明治時代に創業した矢野亀太郎氏が、毎夏、水泳教室を開いて指導していた。
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 今は北浜公園になっている場所が昔の海水浴場。大正時代の案内書では、「天下無比の海水浴場」と誇らしげに宣伝している。
 大正6年「泉都別府温泉案内」は、「天下無比の温泉地たる別府は海水浴場としても亦天下無比であります。」と大いに自慢。その理由として、遠浅で危険がない、海底の砂が柔らかく足触りがよい、海中に温泉が湧くので冷たくない、山や海の景色がよいと4つの特徴をあげ、「海水浴場としての天然的諸条件亦悉く具へて居ると言って宜しいのであります。」と記している。
 さらに「毎年七月上旬から九月上旬に亘って開場され、遊泳伝習所(夏季七八両月間)、公衆休憩所、脱衣場等の設備があります。」とあって、水泳教室が開かれていたこともわかる。
 同10年「最新大別府温泉案内」にも遊泳伝習所のことが書かれてあり、また同じような理由をあげて、こんな理想の海水浴場はどこを探してもあるものではないと豪語している。
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 掲載したもう1枚の絵葉書は、賑わう海水浴場の様子。もちろん現在の北浜公園あたり。
 画面右端に別府港の突堤があり、背景に高崎山がわずかに見える。大正時代で、見物している女性はほとんど着物姿だ。

No1747

町の発展導いた波止場
明治4年築造の歴史持つ別府港

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 掲載した1枚は、以前紹介したのと同じく1950年(昭和25)に米国人が撮影したと思われるスライド写真。かつての別府港(現在はゆめタウン)の船だまりを隔てて、さんばしを出航しようとしている汽船、その背景には大きく高崎山が写っている。
 もう1枚はそれとは全く無関係で、国内で入手したスライド写真。もちろん日本人の観光客が港の風景を撮ったものだろう。時期は不明。
 手前には網を干した漁船、画面奥には突堤の上に立つ森永キャラメルの大きな広告塔が見える。
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 別府港は明治4年に築造された。今、修復のための募金活動が進められている波止場神社には、その由来を記した「別府築港之碑」(松方正義揮毫)が立っている。
 明治期はさんばしがなく、汽船は沖に停泊してはしけで上陸していた。大阪商船のさんばしは大正5年に木造で同9年にコンクリート製固定さんばしが完成した。
 その後の別府の発展について、2003年度版「別府市誌」は「別府は同社の支店が設置されるまでは、へき地の一小温泉場に過ぎず、入湯客も近郷の農漁民を主とし、ほとんどその名も知られていなかったが、同社が桟橋架設や優秀客船就航など別府発展にあらゆる努力を惜しまなかった結果、西日本随一の温泉場としてその名を天下に広め、13年には市制が施行され、繁栄をもたらせるのに大きく貢献したといわれている。」と記している。
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 しかし、戦後は別府国際観光港の整備が進められ、関西汽船も昭和41年に第二埠頭に移転し、翌42年7月16日の発着船から営業を始めた。(昭和60年「別府市誌」)

No1746

駐留軍のキャンプ跡
今や市民憩いの別府公園

今や散策を楽しんだり、ジョギングで体を鍛えたり、家族連れが子供を遊ばせたりと、市民憩いの場所になっている「別府公園」。ここが戦後10年間、米軍が駐留していた「キャンプ・チッカマウガ」だったことを知らない人も多いだろう。

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 公園の中央には、毎冬にイベントが行われる駐留当時から残るモミの木「チッカマウガツリー」や、キャンプのプレートがあったという石が残されていて、かろうじてかつての歴史を伝えている。
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 掲載したのは前回に続いて、戦後まもない頃に米国人が撮影したと思われるスライド写真2枚。
 1枚は駐留した第19連隊の名前と、「ザ・ロック・オブ・チッカマウガ」という言葉。“チッカマウガの岩のような勇者”という意味だそうだ。チッカマウガは南北戦争の激戦地の地名。もう1枚は駐留軍のジープがキャンプ内を走っている様子なのだろう。
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 昭和60年「別府市誌」にはキャンプの急ピッチな建設などについて、次のように書かれている。
 ――昭和二一年三月、別府市公会堂(現中央公民館)に「占領軍工事大分地区兵舎宿舎建設本部」が設けられた。(中略)別府市野口原四三万万六六〇〇平方メートル余りの土地に、兵舎二〇棟、教会、学校など付属施設二三棟、体育館、プールなど総額四億九〇〇〇万円にも及ぶ大工事である。(中略)
 土地の接収に始まった工事は、同年七月一四日、大分県知事細田徳寿、米軍責任者フランシスバーナー中尉の鍬入れで起工式を行なった。完了予定は同年一二月のクリスマス前という突貫工事である。松林の整地作業には、松の根元にダイナマイトを仕掛け爆破するという荒っぽいものであった。資材も食糧も不足していた時代であった。占領軍の命令は、絶対的な力を持っていた。二四時間三交替の仕事で、施行から五カ月後の一二月一五日に工事が完成するスピードぶりであった。――
 ――米軍の別府キャンプは、キャンプ・チカマウガと呼ばれた。チカマウガとは、アメリカ、ジョージア州にある南北戦争の激戦地の地名で、石の多い地形が、ここ野口原に似ていることから名付けた、といわれている。

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 このキャンプには、 三一年七月までの一〇年間、アメリカ軍が駐留した。その数は平時が約二〇〇〇人、朝鮮戦争時には一万人にも達した。――

No1745

おサルの汽車楽しいよ
米国人撮影写真より
ラクテンチのコドモのクニ

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 今回も米国から入手したスライド写真を紹介する。戦後まもない時期とは思われるが、撮影の年月日は不明。
 昭和4年にケーブルカーが開通し、戦後の昭和25年にラクテンチとして再開したが、米国人にも人気があったようだ。
  ◇  ◇  ◇  
 現在なら園全体に子供を楽しませるような施設がいくつもあるが、当時は「コドモのクニ(子供遊園)」とエリアを区切って、「おサルの汽車」、「豆自動車」「トレーラーバス」、「スクーター・スケート」、「飛行塔」、「ビックリハウス(魔術の家)」を設置していた。

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 ――ピーポッポ走る、100米のレールをコドモの汽車が走ります。トンネル抜けて出て来た汽車におサルの運転手 赤い顔してハンドル持ってゴトンカタリと駅へ着きました。
 さあ皆さん乗りましょう。ピリピリ合図の笛で発車だ。発車だ。――
 時代を感じさせる「おサルの汽車」の紹介文だ。さらに飛行塔は「飛行機型のゴンドラに、二〇人の御友達が分乗してアレアレだんだん高く上るよ上る空中旅行の面白さ」、ビックリハウスは「アメリカの専売特許、夏なお寒いスリル満点」とある。
  ◇  ◇  ◇  
 米国人撮影の2枚のほかに掲載したのは、当時のパンフレットの料金表部分。
 同種のパンフレットで大人65円、小学生・幼稚園35円だった入園料が、それぞれ85円と50円に値上げされ、新しい料金表が上から貼り付けられているという次第。かなりの料金アップだったようだ。
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 パンフレットの中で、次のような文章を見ると、ラクテンチそのものが意外に、大人向けの施設だったことがわかる。
 運動場の説明には「会社、工場、組合各位の慰安会や、懇親会で、ぜひ御利用下さいませ。」。
 望月荘という宴会場もあり「眺望絶佳な日本座敷 御休憩に御宴会に御会合に他に類のない別天地であります。」と紹介されている。

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