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No1764

砂湯写真師のマッサン
賑やかだった松原公園

 増田熊太郎の長男実さん(92)=福岡市=は子供の頃の松原公園の賑わいを次のように振り返る。

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 ――映画館が2つ(松栄館と世界館)あって、松涛館(劇場)があり、別府でも一番の盛り場だった。映画がサイレントの時代で、楽隊が元旦に、松原公園で「年の初めの」(唱歌「一月一日」のこと)や「君が代」などを生演奏した。それを聞きに行くのが楽しみだった。――
 公園東側にあった商店の並びも1つ1つ覚えている。
 ――松栄館の北隣りは、饅頭屋、田原下駄屋、高橋酒屋、ビリヤード、三木洋品店、寺田薬局、その隣が増田で、額縁、ブロマイド、本を売った。おやじは趣味で写真を撮り、店はおふくろが取り仕切った。1階が店舗で、2階が写真の修正をする場所、3階が大家さんだった。松栄館は日活、店は日活後援会事務所だったので、フリーパスで映画を見た。――
 現在の公園東側は、松栄館あとがマンション一番、饅頭屋(唐饅の山田屋)の位置には別府つげ工芸、高橋酒屋は冷麺の六盛に、それより北側は駐車場になっていて、かつての町並みの面影はほとんどない。増田萬集堂があったのは、1954年(昭和29)の住宅地図でマルタ染物店だった建物のようだ。
  ◇  ◇  ◇  

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 せっかく繁華な場所に構えた店だったが、昭和初期の不況が経営に影響を及ぼした。
 ――私が小学校4年生の時に、世界恐慌で店が倒れた。その後、朝見川沿いに引っ越したが、学校から帰ってみると、タンスから水屋、机まで赤紙が貼られていた。さらに次の年には、親子3人とも腸チフスにかかり、浜脇病院に入院したが、命は助かった。おふくろは子供相手に焼き芋を売ったり、駄菓子を売ったりした。おやじは写真師を続けた。――
 成績がよく卒業式で答辞も読んだ実さん=南小55回生=は師範学校進学を考えていたが、やむなく高等小学校(現在の山の手中学校の位置)に進み、夜学で勉強できる佐賀関の製錬所に就職。優秀者は東京の大学に進学させてくれる仕組みだったが、留学制度が変更され実現しなかった。そのまま定年まで日本鉱業で働いた。

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 父熊太郎のことを「脳天気な人だった」。ビリヤード好きで客から誘われると、仕事そっちのけで出かけてしまったという。

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 そのぶん、母巴が子供たちを育て、店の切り盛り、写真の修正作業などに忙しく働いた。巴は戦後、良妻賢母として第1回母の日大会で県知事賞を受けた。

No1763

砂湯写真師のマッサン
松原公園そばに増田萬集堂

 戦前の別府で砂湯写真師として活躍したマッサンこと増田熊太郎。それ以前は福岡市で、報道写真家の大崎大造(1889―1959)=号は周水=の下で働いていたようだ。巴との結婚も大崎に仲人をしてもらった。

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 大崎は現在も博多区上川端町にある額縁・画材の店「大崎周水堂」の創業者。広島市出身で、東京で撮影と製版技術を学び、明治末に福岡日々新聞社へカメラ記者第1号として入社した。店の開業は1920年(大正9)で、額縁だけでなく福岡県の名所絵葉書の発行・販売もした。=「大崎周水写真集・104冊のアルバムから」(1992年、葦書房発行)を参考にした。
  ◇  ◇  ◇  

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 詳しいことはわからないが、増田が別府で最初に開いた住吉町通りの店は「周水堂」の看板を掲げ、周水堂の名前で別府名所の絵葉書も発行していた。
 その後、松原公園東側に移った時に、完全に独立して「増田萬集堂」と名乗った。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 掲載した絵葉書は「別府松原通り」のタイトルで、「周水堂製」とある。(住吉町通りとは書かれていないが、通り名の区別はあまり厳密ではなかったのだろう)

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 遊郭が並ぶ浜脇・新町から新町橋(旧国道にかかる朝見川橋より1本海側の橋)を渡り、住吉神社や松原公園へ続く道は、現在は静かな通りだが、かつては非常に賑わっていた。
 画面右手の「絵はがき」と大書した看板の店が周水堂(紙面では見づらいが看板に「SHUSUIDO」とある)で、つり下げられているのはブロマイドのようだ。画面奥の松の木は松原公園。
 なお、筆者の手元には、浜脇遊郭、浴場など周水堂が発行した別府名所の絵葉書が数枚ある。古くから別府名所絵葉書を多種類かつ大量に作った萩原号、和田といった発行元に比べるとわずかなので、絵葉書製作はごく1時期だったと思われる。

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 掲載したもう1枚の「増田萬集堂」の写真では、文字が薄れているがテント上部に「MASUDA―BANSHUDO」と読める。その下は「絵はがきガクブチ各種増田萬集堂」。妻巴が抱いている長男実さん(大正11年生まれ)がまだ幼いので、撮影時期がおおよそわかる。
 ところで増田は十河(そごう)家に生まれ、増田家の養子になった。一緒に写っている老婦人は、高松から遊びに来た十河家の人。一族からは「新幹線の父」と呼ばれた国鉄総裁、十河信二が出ている。増田家も藩の剣術師範だった家柄。

No1762

砂湯写真師のマッサン
大正10年発展期の別府へ

 かつて別府名物だった北浜海岸の天然砂湯。そこで専属写真師をしていたのが、マッサンこと増田熊太郎(1890―1953)だった。

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 香川県高松市の生まれで、若い時から写真機に親しみ、いわば趣味の写真を仕事にした人。
 初めは大阪に出て、大正期に福岡市へ。別府へ移り住んだのは、隣りの大分市で九州沖縄八県連合共進会という盛大な博覧会が開催され、別府も大いに賑わっていた1921年(大正10年)。
 この年は今の鉄輪線にあたる温泉回遊道路が開通し、地獄めぐりも盛んになった。流川通りも拡幅整備された頃で、別府は大発展の真っ最中だった。
 別府では松原公園と遊郭街で賑わった浜脇を結ぶ、住吉町通りの新町橋そばに最初の店を構え、そのあと公園東側に移り、額縁、ブロマイド、本などを売った。店は妻の巴が切り盛りした。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※掲載した1枚は砂湯の入湯客と写る増田熊太郎。子孫によると「ハイカラな人だった。早くから写真をしていたこともそうだが、ビリヤードをしたり、着こなしもおしゃれだった」という。

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 ※掲載したもう1枚は女優の高峰秀子。増田は砂湯以外に、成天閣、港屋旅館、清風荘といった旅館に出入りしていた。その旅館での1枚とのようだ。掲載した写真は2枚とも昭和10年代と思われる。

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