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No1768

浜脇の石田さん
続き
父の船が回天に接触!?
特攻隊志願と血で書く

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 今は姿を消した大分市の旧茶屋町(現在の都町)生まれで、父(松成晋一)が耳鼻咽喉科医師だった石田梧郎さん(85)=浜脇1丁目=の話題は前回でひとまず終了したが、ほかにも非常に興味深いエピソードがいくつもあるので、ぜひ紹介させていただきたい。
  ◇  ◇  ◇  
船が回天の
潜望鏡壊す
 大分市への空襲が激しくなると松成晋一医師は、故郷の香々地へ船で疎開した。
 日出の大神には人間魚雷「回天」の基地があったため、手旗信号で近寄るなと合図があったが船長は理解できずに接近し、回天の潜望鏡を曲げてしまった。
 7時間も足止めされ、絶対に他言はならないと厳しく口止めされた。そのため決して人に話さなかったという。
中津の下宿か
ら徒歩で帰省

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 非常に倹約家だった松成医師。旧制中津中学時代、故郷香々地を離れて中津に下宿していた。
 生田(しょうだ)という元家老の家だったためにしつけが厳しく、ほかの下宿人はみな逃げ出したのだそうだ。
 香々地に帰省する時は、乗り物には乗らず歩いて帰ったため到着するのは真夜中になり、山でキツネに化かされたのだそうだ。
自らの血で
特攻を志願
 石田さんが旧制大分中学3年の時、沖縄での玉砕が伝えられ、生徒全員を集めて校長が「先輩たちに代わってお前たちが国土を守れ」と訓示した。
 その言葉を受けて予科練を志願。石田さんは願書に「特攻を志願する」と自分の血で書いたのだそうだ。
 それほどの覚悟を持っていた石田さんだったが、福岡県芦屋に行かされると、すでに飛行機は残っていなかったのだという。
片づける
のが癖に

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 「玄関の靴もきちんと並べずにはいられません」と石田さん。散らかっているのを見ると、公共の場でも片付けてしまうのが癖になっている。軍事教練や予科練での教育のせいで習慣になっていて、「嫌味じゃないんです。ついついやってしまうんです」と話している。

No1767

浜脇の石田さん
厳格で倹約家だった父
医は仁術なりを実践

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 石田さんの手元には、病床に横たわる馬上金山主成清博愛の写真があり、父松成晋一と成清家の交流を示している。場所は県立病院の病室らしい。何と、手前に写るぴかぴかの大黒天像は純金製だった。
 純金の大黒天像は、大正天皇即位の御大典と大分築港の竣工を祝う「大典築港紀念大分県物産共進会」=大正4年(1915)10月25日から11月15日まで、大分市の大分県物産陳列場と築港埋立地の2会場で=に出品され、話題になった。
  ◇  ◇  ◇  
 松成耳鼻咽喉科医院には「患者に告ぐ」と張り紙があった。
 医者は患者のために全力を尽くさねばならない、と同時に、患者は医者を信じてその言葉を守らないといけないと力強く説いている。
 医院の門には「医は仁術なり」の言葉を書いた看板もあった。その言葉通り、貧しい人からは治療費を受け取らなかったという。
  ◇  ◇  ◇  

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 一方、非常に倹約家で、「ほしい物もなかなか買ってもらえませんでした」と石田さん。
 3段階の口座を持たないといけないと言い、ふだんお金を出し入れする口座と、いざという時に引き出す口座のほかに、決して引き出さない口座を持っていた。
 石田さんによると、茶屋町の屋敷を購入する際に成清家から資金援助の申し出もあったらしいが、それを断り用意していた貯金で買い取ったという。
 明治期から大分市で開業していた松成医師だったが、戦争が激しくなると、故郷の香々地に疎開して診療し、そのまま大分市に戻ることはなかった。(終わり)
  ◇  ◇  ◇  

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 ※松成医師の父武雄は香々地町になる前の岬村村長や香々地郵便局長をつとめた。
 ※松成家は古くから香々地に住み、浦辺水軍と呼ばれた。石垣原合戦には大友方として参戦。江戸時代は延岡内藤藩の庄屋、明治になってから戸長をつとめた。前々回掲載した写真の「三つ巴」に「鳥居」のある家紋は、功績により宇佐神宮から許されたという。石田さんの手元には大量の古文書があり「どなたか解読してほしい」と話している。

No1766

浜脇の石田さん
父は耳鼻咽喉科医
消えた大分市茶屋町

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 戦災に遭わなかった別府と違い、海軍航空廠があった大分市は米軍の標的にされ繰り返し空襲を受けて焼け野原になった。
 石田梧郎さん(85)が生まれた大分市茶屋町(現在は都町)も焼け、今ではビルが建ち並んで通りすら残っていない。
 近所で昔のままなのは勧業銀行(現在のみずほ銀行大分支店)くらいで、「勧業銀行前はもっと広くて遊んでいた。車もほとんど通らなかった」。
 茶屋町やその周辺の町並みについて、「江戸時代の建物がたくさん残っていた。長屋がいくつもあった」と懐かしんでいる。

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 柚子練りの老舗古後や、堀川饅頭の店もあった。山水という料亭は特攻隊員が多く利用した。菊水という料亭の場所は、以前は倉庫だった。
  ◇  ◇  ◇  
 石田さん(旧姓松成)の父松成晋一は耳鼻咽喉科の医師。明治12年(1879)元旦に生まれ、昭和34年(1959)9月に没した。
 香々地(現在は豊後高田市)の旧家の出身で、旧制中津中学、岡山医専で学び、その後は岡山、山口、東京などで修練を積み、明治42年(1909)大分市で開業したが、最初は中柳町という所だった。
 茶屋町に移ったのは大正6年(1917)か7年頃らしいが、そこは江戸時代の両替商が住んだ、部屋数が23もある大きな屋敷だった。
 屋敷を購入するについては、現在の杵築市山香町にあった馬上(ばじょう)金山の主で、日出町に建てた別荘(的山荘)でも知られる成清博愛(なりきよ・ひろえ)が紹介してくれた。石田さんによると、県立病院で治療したことから懇意にしていたという。(続く)
  ◇  ◇  ◇  

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 ※掲載した現在の都町2丁目あたりの写真で、画面中央のビルのうちお(内尾)歯科は戦前もあり、裏手が松成耳鼻咽喉科だった。画面奥がかつて前で遊んだ勧業銀行(現在はみずほ銀行)。
 ※掲載した戦前の松成耳鼻咽喉科の写真で、医院は通りの東側だった。北から南に向けて撮影されている。
 ※掲載した大分県人名辞書の記事には、容貌について「眉目清秀」とあり、「ハンサムでした」と石田さん。さらに「夫人よね子は橋本寛吉氏(萩原銀行頭取)の女、妹芳子旧筑後柳川藩主立花伯の分家立花高木氏に嫁す。」と、松成医師の妻米子(よねこ)が萩原銀行頭取橋本寛吉の娘であることや、妹芳子が柳川藩主の分家に嫁いだことも記されている。

No1765

浜脇の石田さん
大分の町なか育ち
夜は家族で竹町をぶらり

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 かつての駅裏の再開発など、現在大きく変貌しつつある大分市中心部。さらに70年前の空襲で焼け野原になる前、古い家並みが残っていた時代を知っているのが石田梧郎さん(85)=別府市浜脇1丁目=。
 石田さんはツーリズム浜脇まちづくり推進協議会の初代会長として、まちづくりに尽力したことで知られるが、実は昭和5年に大分市茶屋町(現在の都町2丁目6)で生まれて育った。
 ※今回は別府のお隣り、大分市中心部の昔のことを取り上げさせていただきます。
  ◇  ◇  ◇  

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 大分幼稚園(現大分市役所の向かい側あたり)、荷揚町小学校を経て、旧制大分中学(現大分上野丘高校)3年の時に、予科練に入り終戦を迎えた。

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 荷揚町小は千人以上も児童がいた。「府内藩の藩校の跡で、誇らしかった。今でも学校のどこに何があったか、全部記憶しています」。
 学校裏には武徳殿があり、向かって左側が剣道場、右側が柔道場。小学校3年の時から剣道の稽古に通った。
  ◇  ◇  ◇  
 茶屋町は今の都町の北のはずれで、通学路には大分検番があり、三味線を練習する音も聞こえ、風流な雰囲気が漂っていた。
 かつての竹町は人通りが多く、夜も明々としていた。家族で夕食後に竹町をぶらぶら散策する“竹ブラ”をすることもあり、一丸デパート、園田布団店、菊川家具店、映画館のニュース館などが記憶に残っている。一丸デパートはエレベーターがあり、屋上は子供の遊び道具があった。

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 ただ、戦局が厳しくなるとそんな竹町にも品物がなくなっていった。一丸デパートも弾薬倉庫に変わっていったのだそうだ。(続く)
  ◇  ◇  ◇  
 ※99年から10年間にわたって浜脇1丁目1区自治委員、市自治委員会の副会長や浜脇地区支部長、ツーリズム浜脇まちづくり推進協議会の初代会長など、地域の活動に尽力した。ツーリズム浜脇では「作るのに7年かかりました」と振り返る。

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