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No1767

浜脇の石田さん
厳格で倹約家だった父
医は仁術なりを実践

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 石田さんの手元には、病床に横たわる馬上金山主成清博愛の写真があり、父松成晋一と成清家の交流を示している。場所は県立病院の病室らしい。何と、手前に写るぴかぴかの大黒天像は純金製だった。
 純金の大黒天像は、大正天皇即位の御大典と大分築港の竣工を祝う「大典築港紀念大分県物産共進会」=大正4年(1915)10月25日から11月15日まで、大分市の大分県物産陳列場と築港埋立地の2会場で=に出品され、話題になった。
  ◇  ◇  ◇  
 松成耳鼻咽喉科医院には「患者に告ぐ」と張り紙があった。
 医者は患者のために全力を尽くさねばならない、と同時に、患者は医者を信じてその言葉を守らないといけないと力強く説いている。
 医院の門には「医は仁術なり」の言葉を書いた看板もあった。その言葉通り、貧しい人からは治療費を受け取らなかったという。
  ◇  ◇  ◇  

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 一方、非常に倹約家で、「ほしい物もなかなか買ってもらえませんでした」と石田さん。
 3段階の口座を持たないといけないと言い、ふだんお金を出し入れする口座と、いざという時に引き出す口座のほかに、決して引き出さない口座を持っていた。
 石田さんによると、茶屋町の屋敷を購入する際に成清家から資金援助の申し出もあったらしいが、それを断り用意していた貯金で買い取ったという。
 明治期から大分市で開業していた松成医師だったが、戦争が激しくなると、故郷の香々地に疎開して診療し、そのまま大分市に戻ることはなかった。(終わり)
  ◇  ◇  ◇  

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 ※松成医師の父武雄は香々地町になる前の岬村村長や香々地郵便局長をつとめた。
 ※松成家は古くから香々地に住み、浦辺水軍と呼ばれた。石垣原合戦には大友方として参戦。江戸時代は延岡内藤藩の庄屋、明治になってから戸長をつとめた。前々回掲載した写真の「三つ巴」に「鳥居」のある家紋は、功績により宇佐神宮から許されたという。石田さんの手元には大量の古文書があり「どなたか解読してほしい」と話している。

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