No1771
堀田温泉場聞き語り
観海寺と肩並べた時期も
明治初期の浴客共に3千5百人
地元の歴史に詳しい佐藤静資さんによると、すでに紹介した通り堀田温泉場が栄えたのは大正時代まで。大きく発展できなかった理由は、交通の不便とともに、泉源が1つしかなく湯量が足りなかったためで、各旅館にも内湯はなかったという。
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さて、時代をさかのぼると、同じ南立石村の観海寺温泉場と入湯客数が肩を並べていた時期もあった。
「明治十四年大分県統計表」(インターネットの近代デジタルライブラリーで公開)は県内の温泉場ごとの年間入湯客数を掲載しているが、「堀田湯」と「観海寺湯」はともに3500人だった。
明治19年「日本鉱泉誌」では、「堀田鉱泉」3176人、「観海寺鉱泉」3219人とより細かい数字を挙げているが、両温泉場が肩を並べていたことがわかる。
旅館数で見ると、この資料ではそれぞれ「十一戸」、「十余戸」とほぼ同じ。少し時代が下がった明治35年「大分県案内」でも、それぞれ13戸、14戸となっている。
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その後も大正時代の途中まで、どの案内書をめくっても「金田屋、浜屋其他十数軒」(大正6年「泉都別府温泉案内」など)といった書き方がされていて、堀田温泉場の旅館数に変化はなかったようだ。
ところが大正13年「最新別府案内」の著名旅館一覧表では、堀田は金田屋、金田新宅、浜屋の3軒が記載されているのみで、一方で観海寺は8軒。同12年「豊後温泉地旅館名簿」でも数字は同じ。
さらに下った昭和12年「別府案内」の旅館名簿では堀田はゼロ、観海寺3軒となっている。
資料の数字だけを見ると、大正時代の途中から堀田の旅館街が凋落したのではないかと想像される。
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※明治35年「大分県案内」には「旅宿業を営むもの十三戸金田屋、浜屋、萬屋、最も名あり」とある。
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