特集ページ

« 2015年3月 | メイン | 2015年10月 »

No1771

堀田温泉場聞き語り

観海寺と肩並べた時期も
明治初期の浴客共に3千5百人

 

0615o143

地元の歴史に詳しい佐藤静資さんによると、すでに紹介した通り堀田温泉場が栄えたのは大正時代まで。大きく発展できなかった理由は、交通の不便とともに、泉源が1つしかなく湯量が足りなかったためで、各旅館にも内湯はなかったという。
  ◇  ◇  ◇  

0615o133

 さて、時代をさかのぼると、同じ南立石村の観海寺温泉場と入湯客数が肩を並べていた時期もあった。

0615o432

 「明治十四年大分県統計表」(インターネットの近代デジタルライブラリーで公開)は県内の温泉場ごとの年間入湯客数を掲載しているが、「堀田湯」と「観海寺湯」はともに3500人だった。
 明治19年「日本鉱泉誌」では、「堀田鉱泉」3176人、「観海寺鉱泉」3219人とより細かい数字を挙げているが、両温泉場が肩を並べていたことがわかる。
 旅館数で見ると、この資料ではそれぞれ「十一戸」、「十余戸」とほぼ同じ。少し時代が下がった明治35年「大分県案内」でも、それぞれ13戸、14戸となっている。
  ◇  ◇  ◇  

0615o352

 その後も大正時代の途中まで、どの案内書をめくっても「金田屋、浜屋其他十数軒」(大正6年「泉都別府温泉案内」など)といった書き方がされていて、堀田温泉場の旅館数に変化はなかったようだ。
 ところが大正13年「最新別府案内」の著名旅館一覧表では、堀田は金田屋、金田新宅、浜屋の3軒が記載されているのみで、一方で観海寺は8軒。同12年「豊後温泉地旅館名簿」でも数字は同じ。
 さらに下った昭和12年「別府案内」の旅館名簿では堀田はゼロ、観海寺3軒となっている。
 資料の数字だけを見ると、大正時代の途中から堀田の旅館街が凋落したのではないかと想像される。
  ◇  ◇  ◇  
 ※明治35年「大分県案内」には「旅宿業を営むもの十三戸金田屋、浜屋、萬屋、最も名あり」とある。

No1770

堀田温泉場聞き語り

青年団が水を抜き池干し
陸軍演習のため作られた東温泉

 市営堀田温泉の南にある、地元では堤(つつみ)と呼ぶ池の風情は昔も今も変わらない。

0613o15

 佐藤静資さん(83)が青年団の頃は、毎年3月終わりに堤の水を抜き池干しをしていた。つかまえたコイは売り、大きなウナギは打ち上げの時にみなで食べたという。
 今は栓が取れなくなっているため、久しく池の水も抜かれていないままだ。
  ◇  ◇  ◇  
 旧旅館街の奥に温泉跡だけが残る堀田西温泉は、大正10年(1921)に建てられた。平成3年2月に強風で屋根が壊れたのがきっかけで、同6年に閉鎖された。

0613o15_2

 一方、道路そばにあった堀田東温泉が建てられたのは昭和10年(1935)。平成15年に閉鎖され、今は新しい道路の下になっている。
 佐藤さんによると、この東温泉ができたのは、扇山に陸軍演習地があったため。
 ラッパを吹きながら、大勢の兵隊たちが行進して東温泉に来た。大人数がいっぺんに入るため、場所を取らないように兵隊たちは両手を上げて浸かっていた。
 兵舎として使われたのは、大正時代まであった畜産試験場九州支場(当初は農商務省大分種牛所)の建物だったという。(続く)
  ◇  ◇  ◇  

0613o25

 ※掲載した堀田東温泉の写真には小さく、別府市温泉課のお知らせの張り紙も写っている。「堀田温泉は、平成15年3月19日別府市議会において廃止が決定され、本日4月8日から施設を閉鎖しますので立ち入りを禁止します。」と書かれている。その後、県道拡幅工事に伴い、平成18年末に取り壊された。
 ※かつては湯の花小屋もあったことなど、佐藤さんの興味深い話題は尽きない。次回は資料を中心に堀田温泉場の昔を見てみたい。なお、佐藤家は立石七姓の1つで、大友氏に従って豊後に下ってきた武士の家系なのだそうだ。

0613o2

No1769

堀田温泉場聞き語り

石垣原合戦鐘掛の松
切り株掘り松根油に畑を開墾した谷川部隊の兵隊

0612o2

 今や多くの利用者を集めている、新しい市営堀田温泉の南側に、かつて池を囲むように堀田温泉場の旅館街があった。
 その高台には石垣原合戦で大友軍がいくさの合図に鐘を鳴らしたとされる、大きな松の木「鐘掛(かねかけ)の松」があった。木の下には「北白川宮成久王殿下覧古碑」(きたしらかわのみや・なるひさおうでんか・らんこひ)もあった。大正6年(1917)にここから古戦場をご覧になったことを記念し、翌7年に建立された石碑は現存。旧旅館街や大分自動車道、はるかかなたに合戦で黒田方が陣取った角殿山(ルミエールの丘)や実相寺山も眺望できる見晴らしのよい場所に立っている。
 堀田の歴史に詳しい地元の佐藤静資さん(83)によると、鐘掛の松は昭和の初めにカミナリが落ちて切り倒された。子供の頃は切り株しか残っていなかったが、切り株といっても子供が5、6人も手をつなぐほど太く、また高さも2、3メートルあって子供が上れないほどだった。
 ところで、太平洋戦争末期になると飛空機のガソリン不足を補うため、日本全国で「松根油(しょうこんゆ)」作りが取り組まれた。松の切り株を掘って細かくし、専用の釜に入れて熱を加えて油分を取り出した。

0612o15

 鐘掛の松も在郷軍人らによって、まさかりやバチ鍬で、1週間もかけて掘り起こされた。そのあとどうしたかは知らないという。
 さらに、覧古碑も現代になって大分自動車道により西にずらすことを余儀なくされた。周りを囲っていた玉垣は今はなくなっている。
  ◇  ◇  ◇  
 さて佐藤さんが生まれた昭和6年(1931)は満州事変勃発の年。同12年の日中戦争、同16年の太平洋戦争開戦と戦局はいよいよ激しくなっていった時代。佐藤さんが子供の頃は、旅館も営業しておらず、入湯客などもほとんどいなかった。「栄えたのは大正時代までだろう。掘削技術(上総掘り)やポンプの性能がよくなく湯量が少なかったためと、交通が不便だったため」という。
 空き家になっていた旅館、泉屋(いずみや)には谷川部隊という韓国人の兵隊たちが1個小隊ほど滞在し、今の向井病院のグラウンドややまなみ苑あたりを開墾していた。佐藤さんが夕食を済ませて、当時の温泉(堀田西温泉)にゆくと兵隊たちに出会った。イモ畑のサツマイモを収穫する時期を待たず、終戦になると、部隊はいなくなった。(続く)
  ◇  ◇  ◇  

0612o25

 ※大正14年の案内書「最新案内別府温泉」には次のように記されている。
【北白川宮成久王殿下覧古碑】大正七年二月殿下行啓の清蹟、堀田名物「鐘掛の松」の下に建立。=(注)大正七年二月は碑文が書かれた日付なので誤り。おいでになったのは大正六年十月九日だった。

0612o25_2

【鐘掛の松】慶長五年九月石垣原合戦の時、大友軍が合図の鐘を掛けたと伝ふる有名な老松、温泉場東南の巌頭に聳えて居ります。

最近の写真

  • 1216o2_2
  • 1216o2_3
  • 1216o2
  • 1128o2
  • 1128o272
  • 1128o25
  • 1128o3
  • 1127o2625
  • 1127o2625_2
  • 1127o262
  • 1127o15
  • 1127o2