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No1769

堀田温泉場聞き語り

石垣原合戦鐘掛の松
切り株掘り松根油に畑を開墾した谷川部隊の兵隊

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 今や多くの利用者を集めている、新しい市営堀田温泉の南側に、かつて池を囲むように堀田温泉場の旅館街があった。
 その高台には石垣原合戦で大友軍がいくさの合図に鐘を鳴らしたとされる、大きな松の木「鐘掛(かねかけ)の松」があった。木の下には「北白川宮成久王殿下覧古碑」(きたしらかわのみや・なるひさおうでんか・らんこひ)もあった。大正6年(1917)にここから古戦場をご覧になったことを記念し、翌7年に建立された石碑は現存。旧旅館街や大分自動車道、はるかかなたに合戦で黒田方が陣取った角殿山(ルミエールの丘)や実相寺山も眺望できる見晴らしのよい場所に立っている。
 堀田の歴史に詳しい地元の佐藤静資さん(83)によると、鐘掛の松は昭和の初めにカミナリが落ちて切り倒された。子供の頃は切り株しか残っていなかったが、切り株といっても子供が5、6人も手をつなぐほど太く、また高さも2、3メートルあって子供が上れないほどだった。
 ところで、太平洋戦争末期になると飛空機のガソリン不足を補うため、日本全国で「松根油(しょうこんゆ)」作りが取り組まれた。松の切り株を掘って細かくし、専用の釜に入れて熱を加えて油分を取り出した。

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 鐘掛の松も在郷軍人らによって、まさかりやバチ鍬で、1週間もかけて掘り起こされた。そのあとどうしたかは知らないという。
 さらに、覧古碑も現代になって大分自動車道により西にずらすことを余儀なくされた。周りを囲っていた玉垣は今はなくなっている。
  ◇  ◇  ◇  
 さて佐藤さんが生まれた昭和6年(1931)は満州事変勃発の年。同12年の日中戦争、同16年の太平洋戦争開戦と戦局はいよいよ激しくなっていった時代。佐藤さんが子供の頃は、旅館も営業しておらず、入湯客などもほとんどいなかった。「栄えたのは大正時代までだろう。掘削技術(上総掘り)やポンプの性能がよくなく湯量が少なかったためと、交通が不便だったため」という。
 空き家になっていた旅館、泉屋(いずみや)には谷川部隊という韓国人の兵隊たちが1個小隊ほど滞在し、今の向井病院のグラウンドややまなみ苑あたりを開墾していた。佐藤さんが夕食を済ませて、当時の温泉(堀田西温泉)にゆくと兵隊たちに出会った。イモ畑のサツマイモを収穫する時期を待たず、終戦になると、部隊はいなくなった。(続く)
  ◇  ◇  ◇  

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 ※大正14年の案内書「最新案内別府温泉」には次のように記されている。
【北白川宮成久王殿下覧古碑】大正七年二月殿下行啓の清蹟、堀田名物「鐘掛の松」の下に建立。=(注)大正七年二月は碑文が書かれた日付なので誤り。おいでになったのは大正六年十月九日だった。

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【鐘掛の松】慶長五年九月石垣原合戦の時、大友軍が合図の鐘を掛けたと伝ふる有名な老松、温泉場東南の巌頭に聳えて居ります。

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